コーヒーブレイク

エッセイ『手品の周りで』

うえまつまさゆき

ご感想・ご意見などいただけましたら こちらへ

エッセイ集『手品の周りで』出版のお知らせ

YMGホームページに連載された「手品の周りで」が本になりました。 
マジックとその周辺に関する雑学・無駄ばなし・失敗譚などあれこれと…。 
ご興味のある方はどうぞ。

『手品の周りで』 植松正之 ¥1800(税込) 送料¥200

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2012/9/17 更新


目次

  • その1「へたくそ」  
     (2007/1/8)
  • その2「修験道」  
     (2007/1/15) 
  • その3「それ、知ってる」  
     (2007/1/22) 
  • その4「マジシャン」  
     (2007/1/29) 
  • その5「天狗の葉団扇」  
     (2007/2/5) 
  • その6「デンスケ賭博」  
     (2007/2/13) 
  • その7「客へのプレゼント」  
     (2007/2/19)
  • その8「レコード手品」  
     (2007/2/26) 
  • その9「卑弥呼太夫」  
     (2007/3/5)
  • その10「魔法のお城」  
     (2007/3/12) 
  • その11「さとり」  
     (2007/3/19)
  • その12「戦国のマジシャン」  
     (2007/3/26)
  • その13「玉手箱」  
     (2007/4/2)
  • その14「犬は忘れ物をしない」 
     (2007/4/9)
  • その15「未来を知る」  
     (2007/4/16)
  • その16「テレパシー:遠隔知覚」  
     (2007/4/23)
  • その17「大道芸(1)」  
     (2007/4/30)
  • その18「大道芸(2)」  
     (2007/5/7)
  • その19「念写」  
     (2007/5/14)
  • その20「マンゴー樹」  
     (2007/5/21)
  • その21「テレキネシス」  
     (2007/5/28)
  • その22「法術」  
     (2007/6/4)
  • その23「うさぎとかめ」  
     (2007/6/11)
  • その24「立食パーティ」  
     (2007/6/18)
  • その25「寝床」  
     (2007/6/25)
  • その26「蜜蜂」  
     (2007/7/2)
  • その27「ゾンビ」  
     (2007/7/9)
  • その28「100円ショップ」  
     (2007/7/16)
  • その29「ジニー」  
     (2007/7/23)
  • その30「風船」  
     (2007/7/30)
  • その31「胡蝶の舞」 
     (2007/8/6)
  • その32「心筋梗塞」 
     (2007/8/20)
  • その33「サイコロ(1)」 
     (2007/8/27)
  • その34「サイコロ(2)」 
     (2007/9/3)
  • その35「サイコロ(3)」 
     (2007/9/10)
  • その36「サイコロ(4)」 
     (2007/9/17)
  • その37「落語手品」 
     (2007/9/24)
  • その38「高僧の話」 
     (2007/10/1)
  • その39「見えない人」 
     (2007/10/8)
  • その40「テレビマジック」 
     (2007/10/15)
  • その41「さくらさくら」 
     (2007/10/22)
  • その42「腹を切る」 
     (2007/10/29)
  • その43「カラクリ」 
     (2007/11/5)
  • その44「カラスと磁石」 
     (2007/11/12)
  • その45「その後」 
     (2007/11/19)
  • その46「カードを破る」 
     (2007/11/26)
  • その47「いたずら」 
     (2007/12/3)
  • その48「クリスマス」 
     (2007/12/10)
  • その49「新聞紙破り」 
     (2007/12/17)
  • その50「大トリ」 
     (2007/12/24)
  • その51「手品歌留多」 
     (2008/1/1)
  • その52「健康の秘訣」 
     (2008/1/7)
  • その53「失敗の巻」 
     (2008/1/14)
  • その54「モダクラ劇場」 
     (2008/1/21)
  • その55「メタボリック」 
     (2008/1/28)
  • その56「忘れられる」 
     (2008/2/4)
  • その57「狂歌」 
     (2008/2/11)
  • その58「タバコ」 
     (2008/2/18)
  • その59「バレンタインデー」 
     (2008/2/25)
  • その60「ヒトラーの贋札」 
     (2008/3/3)
  • その61「贋札」 
     (2008/3/10) 
  • その62「税金」 
     (2008/3/17)
  • その63「分からない人」 
     (2008/3/24)
  • その64「分からない人(2)」 
     (2008/3/31)
  • その65「数学」 
     (2008/4/7)
  • その66「サムタイ」 
     (2008/4/14) 
  • その67「マッチ棒」 
     (2008/4/21)
  • その68「落っことす」 
     (2008/4/28)
  • その69「変面」 
     (2008/5/5)
  • その70「ふりをする」 
     (2008/5/12)
  • その71「免許」 
     (2008/5/19)
  • その72「問題」 
     (2008/5/26)
  • その73「指が六本」 
     (2008/6/2)
  • その74「キリストの墓」 
     (2008/6/9)
  • その75「シニア」 
     (2008/6/16)
  • その76「現象の予測(1)」 
     (2008/6/23) 
  • その77「現象の予測(2)」 
     (2008/6/30)
  • その78「魔法の粉」 
     (2008/7/7)
  • その79「不思議に見えない」 
     (2008/7/14)
  • その80「ライジングカード」 
     (2008/7/21)
  • その81「マジック教室にて1」 
     (2008/7/28)
  • その82「マジック教室にて」 
     (2008/8/4)
  • その83「マジック教室にて」 
     (2008/8/14)
  • その84「マジック教室にて」 
     (2008/8/18)
  • その85「マジック教室にて」 
     (2008/8/25)
  • その86「ミルク」 
     (2008/9/1)
  • その87「牛肉」 
     (2008/9/8)
  • その88「お名前は?」 
     (2008/9/15) 
  • その89「ダフ屋」 
     (2008/9/22)
  • その90「金輪つなぎ」 
     (2008/9/29)
  • その91「スプーン曲げあれこれ」 
     (2008/10/6)
  • その92「ご挨拶」 
     (2008/10/13)
  • その93「アンコール」 
     (2008/10/20)
  • その94「バックミュージック」 
     (2008/10/27)
  • その95「興味の連鎖」 
     (2008/11/3)
  • その96「想像力」 
     (2008/11/10)
  • その97「スリーカードモンテ」 
     (2008/11/17)
  • その98「趣味道楽の勧め」 
     (2008/11/24)
  • その99「マイザーズドリーム」 
     (2008/12/1) 
  • その100「総理」 
     (2008/12/8)
  • その101「手品を始めた方へ」 
     (2008/12/15) 
  • その102「ロープを切る」 
     (2008/12/22)
  • その103「一億円」 
     (2008/12/29)
  • その104「初夢」 
     (2009/1/5)
  • その105「若葉マーク」 
     (2009/1/12)
  • その106「3本ロープ」 
     (2009/1/19)
  • その107「なんにもない時」 
     (2009/1/26)
  • その108「60人」 
     (2009/2/2)
  • その109「恐竜」 
     (2009/2/9)
  • その110「実説鼠小僧」 
     (2009/2/16)
  • その111「分からなかった」 
     (2009/3/2)
  • その112「ポーカーマジック」 
     (2009/3/9)
  • その113「松竹梅」 
     (2009/3/16)
  • その114「タイトル」 
     (2009/3/23) 
  • その115「タイトル(2)」 
     (2009/3/30)
  • その116「タイトル(3)」 
     (2009/4/6)
  • その117「二人羽織」 
     (2009/4/13)
  • その118「箱根山」 
     (2009/4/20) 
  • その119「神田祭」 
     (2009/4/27)
  • その120「手品の標語」 
     (2009/5/4)
  • その121「かぶり」 
     (2009/5/11)
  • その122「花はどこへ行った」 
     (2009/5/18)
  • その123「あらため」 
     (2009/5/25)

その159「声」 (2012/9/17)

 クロースアップやサロンマジックをやるときは、ステージと違ってしゃべりながらやる場合が多いのですが、このときの声の大きさがシロウトにはなかなか難しい。
 最初に出てきたとき、ショボショボとした声だったら見ているほうも気合が入りませんし、といって、いきなり馬鹿でかい胴間声を出すのもみっともない。

 プロマジシャンはこの点が実に見事です。過不足なく、必ずうまいこと客をひきつける。まあ、当り前と言えば当り前ですが「プロ」と言うのは要するに“人前に立つ”プロですからね。観客をひきつける声の大きさはちゃんと分かっておられます。
 手品の腕さえあれば、誰だってプロになれるなんてわけではない。まあ、逆に言えば、声としゃべりで人をひきつけられれば、別にわざわざ手品なんてややこしいことをやる必要もないんですが。
 落語家なんかはもっと声の出し方のプロです。だから、例えば開口一番の「えー!」という一言にも随分重みがある。ある噺家が修行中、師匠の前で「えー!」と言う一言を、何日も何日もやり直しさせられたなんていう話も、どこかで読んだことがあります。ちっとも話の稽古にならず、ひたすら「えー!」ばかりやっていたって! でも、こういうのがほんものの稽古かもしれないね。

 この、声の大きさと言う問題は、常に観客席の最後列に座っている人を意識的に見ようとすることでかなり改善されます。これは手品の演技に限らず、いろんなプレゼンテーションなどでも同じことです。会社でも地域の集まりでも、どうも声が通らないという人がいる。これはやっぱり、目の前の人だけを見てしまうからなんでしょうね。そうするとどうしてもその人に話しかける声の大きさになってしまう。
 客に一人お手伝いを頼んで、カードを抜いてもらう、なんて時が一番アブナイ。と言って、目の前の客を見ながら後のほうに大声を出すってのもなんとなくおかしいしね。
 昔、我がクラブでも親切な会員が、客席のうしろで『声を大きく』などというプラカードを掲げて、演者を応援したりしていましたが、声の小さい人はもともと後ろの席のほうなど見ていないんですからね。プラカードのほうになんか絶対に目が行かない訳で、なんか無駄なような気がしましたね。うしろの客のほうを見さえすれば、声の大きさは自動的に調節されて適当になるんですからね。

 といって、演技中の視線がずっと最後列じゃあおかしいから、中央や左右、前列の人などに目を向けながら、それでいて時々最後列を見ることを忘れない。
 とまあ、客席全体への視線くばりが出来て、そして過不足のない声が出せるようになったら、初級マジシャンも一応合格かな?
 手品の手順を間違えない、なあんてのはその次でOK。

その158「バスで」 (2012/9/3)

 先日バスに乗っていたときのことです。
3歳前ぐらいの女の子を連れたお母さんが、後ろのほうに乗っていました。
停留所に来たとき、お母さんは「さあ、おりるのよ」と子供をうながしました。
 ご存知のようにバスの降り口は中央付近にあります。ところが、子供はそこを通り過ぎて、危なっかしい足取りで前に歩いていきます。おかあさんは
 「あら、○○ちゃん、そっちじゃないのよ!」とちょっと慌てています。
 ちっちゃいのはちょこちょこと一番前まで来ると、運転手のほうを向いて、バス中に響く大きな声で
 「ありがとうございました!」
これには一同ほっ。
乗客の中から笑い声が洩れたりして…。皆さん大いに心が和みましたね。ドライバーのおっちゃんもすっかり癒されたでしょうね。これじゃあ絶対事故なんかは起きないな。

 保育園などにマジックを見せに行ったときなどにもありますね。
 全部終わって「じゃあ皆さん、今日はどうもありがとう、またお会いしましょうね」などとエンディング。そのとき先生がひとこと「じゃあどなたかご挨拶できる人は?」というと、ハーイ!と威勢よく手を上げた女の子が立ち上がって、大きな声で
 「今日は楽しいマジック、どうもありがとうございました!」
 「はい、どうもありがとう!」と、こちらが照れちゃったりしてね。

 しかし、今の子供たちはしっかりしていますねえ。もじもじウジウジなんてしてる子は誰もいません。
 この子供たちが大人になっても、このことばが大きな声で堂々と言えるようなら、それだけで世の中を渡っていけそうな…。
 「ありがとう」いい言葉だな。

その157「つる」 (2012/8/27)

 「ご隠居さん、鶴ってのは、あれは何で“つる”って言うんです?」
八っつあん、だからおまいさんはモノを知らない。あれはつるって言ったんじゃない、あれは昔は首長鳥と言ったな。
 「えー?首長鳥イ?脚だって長いですよ」
余計なこというんじゃない。首が長いから首長鳥だ。それでいい。
 「まあいいや、で、それがなんで“つる”になったんです?」
そりゃあちゃんとわけがある。あるとき白髪の老人が浜辺で沖を見ていると、モロコシのほうから首長鳥のオスが一羽、ツーーーっと飛んできて、枝にポッととまった、と、こう思いなさい。
 「へえ?枝にツーっと、ですか?それで?」
そこへメスが一羽、るーーーっと来て、ポッととまったんだ。それで“つる”んなったと、こういうわけだ。
 「ありゃりゃ!ツーっと来て、そいでルーっと来て、あはは、そりゃいいや!あたしもやってみよう」

 「おいおい、辰公!おめえ鶴ってのはなんで“つる”ってえか、知ってるか?」
鶴ははじめっからつるじゃあねえか。それともナニか?つるじゃあいけねえってのか?
 「そうじゃあねんだよ。おめえは気が短けえな。まあ、聞きねえ。こういうわけだ」
そういうわけか。
 「まだ言っちゃあいねえよ。まぜっけえしちゃいけねえ。ありゃあ昔は首長鳥って言ったんだ。それがおめえの前だけど、あるときもろこしからオスが一羽、ツルーーーって飛んで来て枝にポッと止ったと思いねえ。」
フンフン、つるーって来てか?
 「そうよ。そこへメスが一羽、う、う、あ、あれっ?」
メスが一羽、どうしたい?
 「あ、あ、また来らあ……ああびっくりした」

 おなじみ落語の「つる」。歌丸さんや昇太さんが時々高座にかけています。
 僕はこういうとぼけた話がなんとなく好きなんです。この原話が寛政時代の小噺集(炉開噺口切)に載っているところを見ると、江戸の人たちもこんなたわいもない話を好んでいたんでしょうね。イキなものだ。

 マジックには鶴のホンモノはなかなか無理でしょうが、折鶴は時々登場します。
 「折り紙」というのも、日本独特の文化らしく、いろいろ研究されていて、想像できないような形が折られているのを見て驚くことがあります。うさぎやかめや白鳥なんか…。そしてこれらがマジックに応用されたとき、また素敵ですね。

 おなじみプロマジシャンの藤原邦恭さんは、紙を折っていろいろな不思議をあらわす術に長けておられます。
 藤原さんの折り紙アイデアは、素晴らしいのが沢山ありますが、一枚の紙から折鶴がなん羽もぴょこんぴょこんと飛び出す「つるつる」(なんか落語に同じタイトルがありますね)なども、なかなか使い勝手のいい作品になっています。

 先日、あるコンベンションに行ったら、珍しい「鶴マジック」が売っていました。いわゆる“フラワーボックス”、カラの紙袋から、花が入った透明な大きなボックスが次々出てくる、ホラ、誰でも持ってる例のヤツですね。あれをひとひねりして、折鶴の入った大きなボックスが出現する、という構成でした。ちょっと見には、その折鶴が、箱の中央に浮かんでいるように見える、というところも一工夫されていました。
 別段それほど不思議不思議って程のものじゃあないけれど、ホームのデーサービスなんかには向いているかもしれないな、と思いつつ、早速購入。結構いい値段したけどね。

 え?“つるつる”ってネーミングは頭を思い出すって? それは気の回し過ぎ。

その156「原発」 (2012/8/20)

 原発を全廃した時の問題点は大きく分けて次の4つだろう。
 まずは現実的な条件として、代替エネルギーの開発は急には進まない、かつ節電に努めても必要電力はさほど大きくは減らない、と考えよう。

1.代替エネルギーの開発が進まない現状では火力に頼らざるを得ず、電気代が高騰する。これにより企業の経営や家計を大幅に圧迫する。
2.最大必要電力に対して供給電力が不足し、計画停電が必要になる。これにより最悪の 場合、病院や家庭での医療事故なども想定される。
3.電力不足と電気代高騰により国内の企業活動が停滞し、失業が増え、社会不安が増大する。税収も減り、国財政は一段と悪化する。
4.火力発電の増大により、温暖化ガスの排出量が増え、削減どころか増大のハメになり、世界から指弾される。これまた破滅までの時間を加速させる。

 外にも指摘はあろうが、まず主要な問題点はこんな所だろう。どれ一つ取っても大変な事態である。どれか一つでも、これが現実化したら、現在の日本社会を大きく揺るがすことになるだろう。
 今、原発全廃を唱える人が、これらの事態をどこまで具体的に把握しているのかは知らないが、長い不況から脱しきれずあえいでいる中で、更に世界的な金融危機に直撃されている昨今、社会不安の要因は一つたりとも許されないのは明らかだ。
 声たからかに全廃を訴える人は、上の4つの問題点をきちんと認識し、かつ覚悟しているのだ、ということを同時に示す必要があるだろう。

 しかし、しかしである。仮にこれらが全部現実化した事を想定しても、福島の事故が再発し、より広域に放射能汚染の影響を受ける事態を考えれば、後者の方が日本社会に与えるダメージが大きいのは明らかである。
 といって、廃止したときの4つの問題点の方は、ほぼ確実に見舞われる事態であるのに対し、事故のほうは可能性(それもきわめて小さい)に過ぎない、という議論もある。それでもなお、マイナスの度合いを考えたとき、原発継続したときの事故再発は、廃止時のマイナスよりはるかに大きいと僕には思われるのだ。

 「想定外」という言葉がある。
 今回の事故で袋叩きにあった言葉だが、実際問題として、危機のレベルを設定しなければ設計も製造も行えないのは明らかである。想定内の事態には対応出来るが、想定外の事態には対応出来ない。ごくごくあたりまえの事だ。
 そして、残念ながら「想定外」は常に起こり得るのもまた現実である。
 震度7を想定して設計された設備は震度8には対応出来ない。震度8を想定して設計された設備は震度9には対応出来ない。7メートルの防潮堤は8メートルの津波には無力である。これまたあたりまえの事だ。
 今回の議論を踏まえて、例えば津波の想定値を変えたところで、本質的な解決にはなっていない。単に安全さの度合いが増したというだけのことだ。間違えてはいけない。「安全さ」が増えたのであって「安全」になったわけではない。
 「原発は絶対に安全です」などというせりふをはいて来た人は、どこか頭がへんてこなのに違いない。“一定の条件下では”という前せりふを抜くからおかしな議論になる。

 問題は一旦「想定外」の事態が発生し、システムがコントロール不能になった時、「最悪の事態」の範囲が計算可能か否かにあると思う。
 例えば新幹線が市街地で脱線したら?ロケットが想定外事故で爆発したら?火力発電所で大火災が起きたら?巨大ダムが決壊したら?銀行システムが破壊されたら?首都圏に大地震が起きたら?
 これらは皆、それぞれ大変な事態でありながら、そのダメージの範囲が一定の計算の範囲に収まるのではなかろうか。
 今回の事故で明らかになったのは、原発事故の場合、この『範囲計算』がほとんど不能だということのようだ。住めなくなるのは半径20キロなのか、100キロなのか、1000キロなのか、あるいは地球全体に及ぶのか…そもそも最悪の事態とはいったいなんなのか?この問いに答えられる人がいない。起きてみなければ分からない。そして、その『事態』は十分起こりえる。
 スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマ…つぎはどこだ?そしてそれはどんな規模だ?

 メリットが限りなく大きいとしても、このようなものは人間社会が手を染めてはいけないものなのではないか、と僕には思われる。
 最初の4つの問題点だって、廃止と決めてしまえば、それはそれで社会全体が必死で知恵を出していくであろう。中途半端な方針では、どっちも問題が大きいだけに、ズルズルと無駄な時間だけが過ぎていくようだ。

 まあしかし、そんなことをいくら言ったところで、もはや人類は破滅へのノーリターンポイントを超えてしまったのではないか?という思いもあるのだけれど…。
 しょうがない、手品でもやってるか。

その155「火−その2」 (2012/8/13)

 さて、ステージの「火」の話。つづき。
 今と違ってその昔は、ステージの「火」は単純に照明のためでした。電灯のない時代、照明に使えるものはオテントサマの光と炎だけ…。
 勿論、江戸初期の劇場は屋根なしで昼間だけの興行だったのですが、だんだん夜の興行に発展していきます。こんなとき、手妻だろうが落語だろうが大歌舞伎だろうが、舞台の照明と言ったらろうそくだけです。これはしかし暗かっただろうね。さぞかし…。
 今の我々には当時の舞台の暗さなんて全く想像もつかない。しかし、スライハンドなんざ、やりたい放題だったろうなあ。

 両国の江戸東京博物館の一角に昔の劇場が再現されていますが、その舞台の暗さと言ったらありません。昔の人はこんな暗さの中で歌舞伎を見たり、怪談話なんかを聞いていたんですから、そりゃ怪談だって迫力ありますよね。それにその当時は、幽霊もお化けも、そこらへんにうようよ一杯いたわけだし…。お岩さんだって小幡小平次だって、みんな身近な存在です。
 いま、いつでもどこでも真昼間のように明るくなっちゃって、幽霊もお化けも皆さんどこかに消えちゃった。残念なことです。どうもこの方々と照明とは相性が悪いようだ。
 僕はどうしたわけか、昔のまんまの百匁ろうそくというものを大事に持っているのですがね、先日の地震に続く停電の日に初めて使ってみました。昔はこの百匁ろうそくが最大の照明器具ですからね。まあ、明るいといえば明るいけど、所詮は「ろうそく」だ。部屋全体が明るくなるなんて状況ではとてもありませんでした。

 何に書いてあったのか忘れたけれど、人間の生活が劇的に変わったのは、なんといっても「電気照明」の発明だったとか。そりゃまあ、「動力」の発明やら、マッチの発明やら、いろいろ生活スタイルを変化させた技術は多かったでしょうが、「夜」が明るくなって、昼と変わらない仕事が出来るようになった、ってのは大きかったでしょうねえ。
 発明したエジソン(でいいのかな?)はやっぱり偉大だ。なんか、最初の電球のフィラメントには日本の「竹」を使ったんですってね。電流によるジュール熱で焼け切れないように中の空気を抜く、なんて発想はお見事としか言いようがない。

 我々のようなシロウト手品大会だって、照明で随分見栄えが違います。ウデやスタイルはいまさら変えようもないけどね。ホリゾンタルライトやら効果照明なんぞ精一杯生かして…。
 ではここで舞台栄えのウエマツさんの法則
 「ウデは3割、照明2割。音楽2割で笑顔で3割」
 さあ、「火」なんか使わなくとも、カッコ良く行きましょう。

その154「蜘蛛の糸」 (2012/8/6)

 なんか高名な小説と同じタイトルで恐れいります。いやこちらはそんな格調の高い話じゃない。
 僕は昔から、蜘蛛の巣が例えば二本の木の間など、離れている空間に張られているのが不思議でした。あれは、最初の一本はどうやって張ったのか?
 最初の一本が張られてしまえば、後は簡単なのは分かりますがね。一本目は分からない。
 考えられる方法としては、こちらの枝に糸の先っぽをくっつけてから、地上をノコノコ歩いて向こうの木にエッチラオッチラ上っていったのか、それにしちゃ川の上なんかにもかかってるし…?
 それとも空中を飛んだのか?まさかねぇ。蜘蛛に羽なんざないし、またそれ程ジャンプ力があるとも思えない。つまりどっちもありそうにない。
 実際のところは良く分からないけど、ただあてもなくブラーンとぶら下がっている内に、風に吹かれて向こうの木に辿り着くなんて事かも知れない。そもそもどこに巣を張ろうなんて設計意図なんぞも、さほどのやる気もなく、全くの風まかせお天気まかせ。ま、そんなところなのかな?とも思うけど、しかしいずれにせよ、そんな現場は見たことがない。不思議な事だと思っているままです。
 え?そんな事を不思議に思う方が不思議だって?ま、人それぞれで…。

 さて手品のステージの蜘蛛の糸。つまり投げテープですね。
もともとは歌舞伎の舞台などで使われていたものなのでしょうが、今はアマもプロもステージマジシャンの必需品です。でもこれって、きれいに飛ばすのって案外難しいんですよね。投げる角度、手首のスナップなどなど…。
結構高価な消耗品なので、なかなか練習もままならないのではありますが、やはりそれなりに場数を重ねないとうまくは飛んでくれません。
 それに問題はスチールです。いかに自然に手の中に取り込むか?
何種類かのホルダー類が売られていますが、ま、この手のものは、舞台にかける人それぞれが、自分なりに具合のいいものを自作しているのが実態かも知れません。僕もショップの製品もいくつか持ってはいるのですが、愛用しているのは結局自作のホルダーです。
 え?いつぞや派手に落っことしたのは…?いやこれはホルダーのせいじゃない。取ってからもたついただけで…。

 また、少し前、Webというタイトルの、品の悪いクロースアップマジックがはやったことがありました。蜘蛛の絵が書かれたカードのパケットトリックをいじっているうちに、いつのまにか広げた客の手のひらの裏に、一匹のおどろおどろしい蜘蛛が張り付いてる!大概の女性客はキャーッといって腰を抜かさんばかり…。
 これはいささか趣味が悪かったですね。いくら手品は人を驚かすもんだ!といったところで、なんでもかんでもビックリさせればいいってモノでもない、とは思うんですがね。まあ、手品であろうがなかろうが、とにかく女性にキャアーって悲鳴を上げさせればそれで十分!というムキには適当なアイテムだったかもしれません。

 話は違うけど、ネットワークに蜘蛛の巣(web)なんて名前をよくつけたものだ。
あれはもちろん、あちこちに張り巡らされてるって事もあるんだろうけど、ひょっとしたら、ネット中毒に捕らわれちゃったら逃げられない!って事からなのかな?

その153「1たす1は」 (2012/7/30)

“1たす1はいくつですか?”

シロウト手品のおっちゃんに聞きました。おっちゃんは帽子をひねくりながら答えました。
「答えが2ではマジックにならないねえ。たとえば41なんて答えはどう?」
“それじゃぁなんだか、子供だましのクイズみたいですね”

数学者に聞きました。
「直感的には2で正しいでしょう。しかし『1+1は2である』という命題は、別に公理ではありませんから、証明が必要です。でもこの証明は困難です。なぜなら、2以外の全ての数字が誤りであることを示さなければなりませんからね。2以外の数字がいくつあるのかって?それは分かりません。」
“はいはい、そうですか!”

統計学者に聞きました。
「これはそれほど単純でもないのですよ。それぞれが誤差を含みますからね。含まれる誤差によっては、その和は1にも3にもなります。誤差を正規分布としてその分散値を…」
“あ、もういいです”

近頃はやらない哲学の先生に聞きました。
「近年の哲学では、これは設問自体が存在しないとする考え方が主流です。つまり『1』も、また『たす』も、それ自体定義が曖昧であり、いわば『問い』の為に作り出された概念にすぎないと考えられますから、これはたとえば『哲学とは何か?』という設問に等しく、設問それ自体が意味を持たない、すなわち存在しない、と考えるべきでしょうね。」
“はあ…?”

某教会に行って聞きました。
「よくお尋ねくださいました。ええ、これは人の心の中の問題です。頑なに『2しかあり得ない』と主張する方もいるでしょう。また、『2以外にも答があるのかも知れない』と考える人もいるはずです。しかしそのことで争いを起こしたりする必要はないのです。神はその全てをお許しになります。お分かりになりますでしょうか?」
“はい、よく分かりました。”

ますます分からなくなったので、お寺に聞きに行きました。「転失気」の時のように…。あ、あの時も分からなかったけど……。
禅寺では
「1たす1ですと? まずは無念夢想です。ご遠慮なく参禅下さい」
日蓮宗では
「全ての答えは法華経の中にあります」
浄土宗では
「南無阿弥陀佛…」

なんとなく少しずつ分かってきましたので、最後にベテラン会計士に聞くことにしました。
“いったい1たす1はいくつなんですか?”
会計士はしばらく黙って私の顔を見ていましたが、周りを見渡してから声を潜めて言いました。
「で、1たす1をいくつにすればいいのですか?」

その152「鵜飼」 (2012/7/23)

 “水にきらめく篝火は 誰に思いを燃やすやら…”

 ご存知『長良川艶歌』です。長良川は鵜飼で有名ですが、今全国で鵜飼をやる川は15ヶ所ほどもあるそうです。京都の嵐山、同じく宇治川、そして岩国の錦帯橋…、 などなど。もちろん全て観光用で、鵜匠の方々は別に、取った鮎を売って生計を立てている訳ではありません。
 これらの内、一カ所を除き、残り14カ所の全てに、その「鵜」を供給している場所があります。全国で唯一の鵜の捕獲場、それが茨城県の「鵜の岬」です。先日、さるマジック仲間とそこを訪れる機会がありました。
 ここは実に風光明媚な海岸です。海辺の断崖絶壁のちょっとした岩棚に鳥屋(とや)という掛小屋を設け、そこにオトリの鵜をつないで、近寄って来た野生の鵜を捕獲します。これに一定の訓練をして全国の鵜飼場に供給している由。
 鳥屋には、断崖の裏から長く掘りぬいたトンネルを通って行きます。現実に案内されましたが、今は時期ではないとの事で、捕獲の実態は見られませんでした。捕獲は、鳥屋の中から長い棹をそおっと出し、鵜の脚に引っ掛けるということです。鵜という鳥は結構大きい鳥なので、実際にはなかなか大変なことなのでしょう。鳥屋の構造や、その捕獲方法の説明など、なかなか興味深い場所ではありました。

 ところで以前、実際に鵜飼の観光舟に乗り込んだ事がありましたが、これが思ったほど面白くはなかった。
 もちろん鵜飼舟そのものに乗る訳じゃない。川岸に繋いだ舟の中で夕風に吹かれながらまずはビールなど一杯。近寄って来る舟が売る、焼きたての鮎などがサカナです。
 仲間の一人が「おねえさん、この鮎養殖でしょ!」などと、言わでもの事を言うと、ご年配のおねえさんは軽く受け流し「いいえ、鮎は和食ですよ!」一瞬きょとんとして皆笑い出す。これは定番のジョークのようです。はい、座布団一枚!
 待ちくたびれたころ、次第に川面も暗くなって、やがて静々と鵜飼舟が下って来るのですが、何か遠くて、肝心の鵜の御活躍が良く見えない。川面に揺れる篝火と鵜匠の姿は、十分情緒たっぷりではあるのですがね。

 こちらは別に、鵜の生態を詳細研究しようなどと言う心がけではないので、よく見えなくたって別に構わないと言えば構わないのではありますが、単に情緒にひたろうという点からは、岸で篝火を眺めているのと、さほど変わりない感じでした。
 あるいは、川岸のホテルの部屋でゆっくりしながら…とかね。川岸に立ち並ぶ観光ホテルは、鵜飼舟がやってくると、鵜の邪魔にならないよう明かりを消すことになっています。これもまたなかなか風情があります。

 しかしまあ、捕獲されて訓練されて、自分が食べる訳でもない鮎を、せっせと捕る鵜さんも、ご苦労と言えばご苦労な話ではあります。でも聞くところでは、野生よりもエサや生活環境が良くなるせいか、こちらの方が長生きの由。
ふむふむ、それはますますご苦労ではあるな。近頃長生きは楽じゃない。

 まあ、鵜飼とマジックではあんまり関係はなさそうですがね、多少似たものと言えば、「アヒルのカード当て」ぐらいかな?
 カードの山にアヒルがチョコンと嘴を突っ込んで、客のカードをくわえ出す。なんかトボけたマジックですが、とぼけている割に随分高価なものでした。まあ小さい子供には受けるでしょうけど…。もちろん僕なんか持ってはいませんがね。

 鵜飼と言う変わった漁法は日本と中国だけだそうな。
やはりこれも伝統文化の一つとして大切にして行くものなのでしょうね。
もちろん「鮎漁」としてではなく、夜の川面に煌めく篝火の情緒とその哀愁といったようなものを大切に…。そしてそれが今や大変貴重なものになってしまったので一層…。
昔の人も、その当時、既に言っていました。

   「面白うて やがて悲しき 鵜舟かな」
    うん、冒頭の“艶歌”よりはよほど上等だな。やはり。

その151「六文銭―2」 (2012/7/16)

 さて真田六文銭の続き。

 この真田「六連銭」の旗印を見て、コインマジックの好きな人は何か思い出しませんか?
 そう、ちょうど六枚のコインを、この六連銭の形に並べた、有名なマジックがありますね。これは「チャイニーズクラシック」というタイトルで、高木重朗さんの紹介で奇術研究31号に出ています。
 “クラシック”というくらいだから、特に作者もないのかと思っていたのですが、改めて見てみると、ハンピンチェンそのひとが考案者であるらしい。

 思えば、僕が初めて本格的なコインマジックを覚えたのは、この「チャイニーズクラシック」でした。左右の手に3枚ずつのコインを握り、左手の3枚がまとめてテーブルを貫通する、それも2度連続して!という現象ですね。
 ただ、残念ながらこれは本を見て覚えたのであって、実際に現象を見て驚いたわけじゃない。だから、こんなんで不思議に見えるのかなあ?なんて半分疑問に思いながら、技法である“ハンピンチェン”などをぼちぼち練習していましたね。(こんなのバレるよなあ?!)なあんて思いながら…。
 このハンピンチェンという技は、理屈としてはすぐ分かっても、これを本当に不思議に見せるのには相当な訓練が必要です。肝心なのは右手のサムパームではなく、左手のコインの握り方と、その左こぶしを動かすタイミングなんですがね。
 今でこそ、その重要なポイントが理解出来ているつもりでいるけれど、当時本で読んだだけではなかなかその勘ドコロがつかめず、結果、コインマジックそのものが、さほど面白いものだとは思えないままに過ごしていました。
 まあ、こんな技でも、初めて開発した人はやっぱりえらいものではあります。ちゃんと歴史に名前が残ってるしね。

 しかしなんといっても、コインマジックの面白さ・不思議さ・そして玄妙さに僕が開眼したのは、デビッド・ロスの技を目の前に見たときでした。こんなことがあり得るものか?ビックリを通り越して背筋が寒くなるほどの驚きでしたね。
 これ以来、ハンピンチェンはともかく、クラシックパームを必死に練習しました。と言ってもこれは単に、いろんな動作の間にパームしているというだけでいい。別段、テーブルを前に斎戒沐浴、鉢巻りりしくイザイザ練習!などとリキむ必要は全くないわけで、いまもこうしてパソコンをたたきながら、ただパームしているというだけの話です。

 真田の六連銭は、別にコインマジックとは関係ないのだけれど、真田一族の玄妙鮮やかなる戦法の記憶が、あまりにも鮮烈だったため、後年、これらの記憶は、猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍術使いたちの伝説と結びついて行きました。
 これら忍術の名人は皆真田幸村の家来です。水遁の術火遁の術、十字手裏剣にマキビシにコイン投げ(おっとこちらは平次親分だった)。
 そう、そして忍術使いまで来れば、われらマジシャンたちとの距離はホンのひとまたぎです。水遁火遁、空を飛ぶのも煙と共に消えうせるのも、いまや現代マジシャンにとっては自由自在だ。(え?ほんと?)

 「六枚のコイン」の旗印は、群雄ひしめく戦国の世に圧倒的な存在感を示しました。
戦場を疾駆するコインの旗に翻弄された徳川方の侍たちは、玄妙不可思議なる“真田マジック”を見せられた気になっていたのではないでしょうかね。

その150「六文銭―1」 (2012/7/9)

 今日は戦国時代のコインマジック(?)のお話。

 真田幸村という名前で知られている武将は、当時の文書には自署も含め、みな「信繁」という名前で書かれているらしい。いつのころか、講談などで幸村になってしまったようです。
 ともあれ、この人物は、英雄豪傑数限りない戦国武将の中でも、その知略武勇そして散り際の美しさなど、ひときわ燦然と輝いています。
 特に、すでに豊臣方にとって絶望的な状況であった、大阪夏の陣の最後の決戦。大阪城を十重二十重に取り巻く何十万という徳川軍の中へ、わずか三千の手兵で、ただひたすら家康の本陣めがけて真一文字に突入。家康の本隊を散々に駆け散らし駆け散らし、あわや総大将家康を自決の寸前まで追い詰めた手際には、胸のすく思いがします。
 実はこのとき家康は討ち死にをしてしまって、このあとの家康は影武者だという説さえあるくらいです。なにしろ、現地の南宗寺には現在も家康の墓というものがあり、二代、三代将軍がわざわざおまいりしています(これは事実)。
 ともあれ、この突撃で幸村が討死してその翌日、大阪城は落城していますが、当時、敵がたの島津・細川氏などの手紙の中でも、その働きが激賞されています。「真田、日本一のつわもの。いにしへよりの物語にもこれなきよし…」(島津文書)

 このおやじが真田昌幸、これがまた一筋縄では行かないクセモノで、これも戦国の怪物の一人と言えます。若い頃は武田信玄の側近として重用されていたので、この時分に信玄の物の考え方や、虚虚実実の戦運びなどを覚えたのでしょう。そして武田滅亡後は独力で戦国大名の地位を勝ち取り、戦上手の徳川を、小人数でなんどもなんどもひどい目にあわせ、家康に苦い目を見させています。
 家康はよっぽど真田が苦手だったようです。これは昌幸死後の話ですが、ついに豊臣徳川が開戦となったとき、“真田が大阪城に入城した”と報告を受けた家康は顔色を変え「なに?真田と言うはおやじかせがれか?」と大声で使者を怒鳴りつけ、そのとき手がブルブル震えていたとか。

 昌幸マジックのハイライトは関が原合戦の前夜です。本多・大久保・榊原など徳川家の最強軍団が含まれた主力三万八千の大部隊を、秀忠が率いて中仙道を進軍したのですが、この主力部隊を、たった二千人ほどの上田城で足止めさせ、散々に翻弄して、なんと合戦に間に合わなくさせてしまった。
 関が原で決戦のとき到った家康は、やむを得ず半分以下の徳川軍と、福島黒田など、本来向こう側であってもおかしくない豊臣大名たちを使って、この戦国史上最大の合戦を戦う羽目になってしまいました。
 秀忠軍主力が間に合っていれば、家康はなにも小早川秀秋ごときデクノボウの裏切りに頼らなくたって、十分に圧倒的勝利を得られたところでしょう。戦に遅れてノコノコやってきた秀忠に、家康は怒り心頭、周囲がとりなしても、決して会おうともしなかった由。

 さらにこの昌幸のおやじが真田幸隆(幸綱とも)。これはもともと信濃の豪族ですが、武田信玄の武将として川中島などでも活躍、信玄に一目置かれたほどの傑物でした。
 真田三代というのは天下こそ取らなかったけれど、特異な逸材の輩出した血筋だったようです。

 さてこの真田家の旗印が有名な「六連銭」または「六文銭」。三途の川の渡し賃と関係があるのかもしれませんが、一文銭が三枚ずつ二列に並んだ覚えやすい形です。
 なかなかコインマジックに行かないな。
 以下次回。

その149「タネも仕掛けも」 (2012/7/2)

 「タネも仕掛けもございません」というのは大昔の手妻師の口上です。いまどきこんなことを言うマジシャンはおりません。え?あなたまだ言ってるの?おやおや。

 ところで、「タネも仕掛けも」というからには『タネ』と『仕掛け』は違うものなんでしょうかね?
 「仕掛け」はなんとなく分かる。なんか、メカ的な感じがします。
―特別にワザなど発揮しなくても、自動的に不思議な現象を起こしてくれる構造―みたいな感じですね。たとえて言えば、例のライジングカードでデバノ式とかいうスグレモノ。これは実によく出来てる。演者はただオマジナイだけかけてればいい。
 大掛かりなものではイリュージョンなんかには多そうだ。『水芸』なんかも「仕掛け」なのかしら?よくは知らないけれど…(*^^)v

 これに対して「タネ」というともっと小ぶりな感じですね。サ○チップやら「四つ玉」のシ○ルやら、あるいはダブルバックの一枚やら…。
 これらは別に自動的に何かをやってくれるわけではなく、手品師のスキルや構想が伴ってはじめて、その機能を発揮する道具です。なんとなく「ギミック」という言葉に近いような感じもします。
 だとすればやっぱり「タネも仕掛けもない」という表現はつまり、「へんなギミックも特別な構造も使ってないよ!」ということなのかな?
 「ハイお立会い!タネも仕掛けもございませんよ!あるのは手先のワザと口先三寸!千変万化・摩訶不思議!おだいは見てのお帰りだ!サアいらはいいらはい!」

 ところで、「タネも仕掛けも有りません」と聞いてる人は「そんなこたないでしょ、うそばっかり!」と思っているのではありますがね。しかし別段アラダテたりはしません。
 こういう、言うほうも聞くほうも、お互いが了解の上でシラジラしい嘘をつくってことは、世の中結構ありますよね。

 例えばほら、
   ・公共工事の入札に談合などは一切やっておりません。
   ・政治資金は100パーセント透明です。記載のない献金などはありません。
   ・献金してくれた人に、特別な便宜などをはかることはありません。
   ・議員の資産は公開したものが全てです。
   ・マージャンに金など賭けたりはしていません。
   ・公務員に縁故採用などは一切ありません。
   ・テレビのマジック番組で司会者がサクラだなんて事はありえません。
   ・米軍は日本に核など持ち込んではおりません。
   ・相撲に八百長などは存在しません。
   ・原発は絶対安全です。
   ・新聞は常に公正です。新聞社が特定の宗教団体から印刷の仕事をもらっているから
   といって、記事で配慮したりは致しません。

 まあ、言ってるほうは、「どうせ聞いてる方だって、ウソだと分かっているに決まってるよ」と、たわいのない冗談のつもりなのかもしれないけれど、中にはタチの悪いのもありますね。あれ?え?ジョークだなんて思ってなかったって? そりゃまあ、どう取るかは人それぞれではありますが…。

 しかし、言うほうも聞くほうも、お互いがこんなのはウソ八百だと承知の上で、そおっとしておくことで、世の中の平和が保たれているんでしょうかね。一つでもコトを荒立てたりしたら、それこそオオゴトになっちゃうし…。うん、もうオオゴトになっちまったか!いくつかは!
 そう、世の平和は「平和運動」などよりも「ウソ」で保たれてるのかな? 
 はいはい、タネも仕掛けもございませんよ…と、手品だって負けずに。

その148「トリレンマの法則」 (2012/6/18)

 世に「トリレンマの法則」というものがあります。そう、ジレンマは二つ、トリレンマは三つの相反事項。つまり、物事は常に三つのうち二つしか満足しえない、という法則です。
 最初に言い出されたのはドイツなのかな?
 「知性」と「誠実さ」と「ナチス性」は二つしか同時に持ち得ない、というものでした。
    知性があって誠実な人はナチスにはなりえない。
    ナチスの任務を誠実に行う人には知性がない。
    知性があるナチスは誠実な人間ではない。
 なるほどね。

 ナチスなんて良く分からないけど、これを我々の世界に持ち込むと理解が早い。例えば製造業で見れば、新製品の「品質」と「納期」と「コスト」は、おおむね三つのうち二つしか満足できません。
 品質と納期を優先させると、残念ながらコストが予定をはみ出してしまう。次に納期とコストを優先させれば、品質がおろそかになる恐れあり。そしてコストと品質を徹底的に追求すれば、今度は納期に支障をきたす。ほら、あなたの会社もそれで大変なんでしょ。毎日毎日遅くまで…。
 “とんでもないことだ!ウチの会社では全てを満足させています。当然のことです!”
 “うん、うん、分かった。分かった。そうですよね。失礼しました。”

 別の例では「若さ」と「時間」と「お金」。
 若さがたっぷりあるころは、遊ぶ時間だって十分あるけど、肝心のおカネがない。そうだ、学生のころは、金がなかったよなァ!ヒマだったけど…。50円で腹いっぱい食える定食屋が、我々寮生の行きつけだった。いやあったんだよ、そういうのが…あの町には。
 中年になってお金が多少は出来てきても、その時分は子育てや会社で必死の思いで、遊ぶ時間なんて全くない。え?今がそうだ? うん頑張ってください。社会のために。あなたに今、踏ん張ってもらわねば…。
 さてさてめでたく定年を迎えれば、今度は時間はたっぷりある、お金だって若いころよりは少しは自由が利く、けれど惜しいかな、もはや若さは残っていない、うう…。
 え?「僕には一つだけだ。二つもないよ!どうしてくれるんだ!」って? まあまあ、そう、喰ってかからないで。これは一般論です。一般論。

 さてでは、これをアマチュア手品の世界に当てはめてみよう。これはどうも、「技術の易しさ」と「見栄え」と「費用」が“トリレンマ”に該当するようです。
 易しくて見栄えのするマジックはお金がかかる。ほら、あなたの持ってる豪華ランマンやらフラワーチューブなどのことですよ。
 エイってやるだけで、ウワァぱちぱちぱち!と大受け!ちっとも難しくなんかない。でも高かったでしょ。まあ、一生使えるけどね。
 一方、お金がかからなくて見栄えのするものは、技術が難しい。そう、ミリオンカードや四つ玉、それにサムタイなんかです。たいした投資は必要ないけれど、これらはえらく難しい。え?もうあきらめたって?すこしかじっただけで?まあねえ。もうほんのちょっと頑張ったら?無理にとは言わないけれど…。無理か。
 そして易しくってお金のかからないものは、残念ながらそれほど舞台栄えのするものはあんまりありません。なんかしょぼしょぼしてる。やっぱり、お金か技術か、どっちかは頑張らなくっちゃね。
 まあ、とはいっても、画期的な、そして独創的なアイデアがあれば、それはどっちも要らないかも…。

 そう、なにごとも世の中は「トリレンマの法則」で動いてるんですね。いつだってなんだって、三つのうち二つだけは満足するんだけれど、惜しいかな、三つとも同時に成り立つなんて事はないんだ。That is the life ! はい。

なんだって? “妻をめとらば才長けて みめうるわしく なさけあり…?”
だから、それは無理なんだって!おにいさん!

その147「らんま先生」 (2012/6/11)

 野毛の大道芸フェスティバルに今年も行きました。いや実際には、道端での焼き鳥やらビールが目的の半分なのはいつもと同じ…。

 今年初出演の「らんま先生」という人が、科学マジックのパフォーマンスということで紹介されていたので、これを楽しみに出かけましたが、これが予想外に面白かった。
 どうもこの方面では有名な人らしく、テレビに出たり、全国を回ってパフォーマンスをしている方らしい。
 やれエコだ環境だという、表向きのうたい文句は僕にはどうでもいいのですが、ショー(と言っていいんでしょうね)の中身が、結構“見せて”くれましたね。
 このジャンルでは“米村でんじろう先生”という方が有名で、著書もあり、テレビなどでも売れっ子です。
 らんま先生のほうは、もちろん科学・化学の知識は十分お持ちなのでしょうが、それに加えてバルーン技術や、マジック自体のココロエも幾分おありのようでした。だから30分の持ち時間がそれなりにショーになっていましたね。
 しかし、ロープとリングなんかでも、あんな見せ方があるなんて、マジシャンでは決して思いつかないものでしょう。何本かのリングがお互い絡み合って、ロープの周りをくるくる回りながらゆっくり落ちてくる、なかなか見栄えもして、きれいな現象です。

 いろいろ面白い現象があったのですが、なかでも「液体の色消え」は鮮やかでした。ウーロン茶のペットボトルを振ってやると、一瞬で見事に透明な水になってしまう。これはやり方をもう少し工夫すれば、十分マジックとして通用しそうでした。
 先生はマジックを披露しているわけではなく、化学の啓蒙というタテマエですから、全て種あかし(というか、やり方の説明)をしてくれます。
 ウーロン茶と見えたのは、実はヨードの液。簡単に手に入れるにはヨード系のうがい薬(商品名では「イソジン」など)を、水に数滴落としてやれば出来上がりです。ほら、お宅の洗面所のスミッコにくすんでいるでしょ。あれです。
 さてではこの色を一瞬で消すには…?
 なんと、ドラッグストアに並んでいるビタミンCのサプリメントを買ってきて、これをほんのちょっぴり振りかけてやれば、それで完了なのだそうです。こりゃいいや。

 家に帰って、本棚に並んでいる(だけの)、「化学マジック」(L・A・フォード)なんていう本を、あたふたと調べてみると、「チオ硫酸ナトリウム」を使えなどと書いてあります。そんなもの、どこに行きゃ手に入るんだ? ノコノコ薬局に行って「チオ硫酸…うう…?」なんてモゴモゴ言ってると、アヤシゲな宗教団体などと間違われる恐れがある。人相もイマイチだし…。
 その点、ビタミンCなら大威張りで買ってこられます。いや、別に威張ることなんかないけれど…。

 さてさて、実際にやってみました。ビタミンCは「DHC」のもの。どうも、成分表にある「酸化チタン」というシロモノがそんな働きをするようです。
 きっとこの“チタン”、“チオ”がクセモノなんでしょうね。あてずっぽうですが。
 このビタミンC剤は一回分ずつカプセルに入っています。最初はこれを一つ全部入れてみましたが、これは失敗。かえってビタミン剤に含まれているレモン系の黄色い色が付いてしまいました。これではウーロン茶がレモン水に変わったってことになるのかもしれないけど、どうもイマイチ…。やはり透明な水になったほうがずっときれいに見えます。
 透明な水に変化させるには、ほんの、ほんのちょっぴり、マッチ棒の先のそのまた半分ぐらいの量で十分でした。こんな量で!とここでまたびっくり!
 全部簡単に手に入るでしょ!やって御覧なさい。ご自分でびっくりしますから。

 これだったら、マジックとしても十分いろんな方法が考えられます。
 という訳で、僕が例会で皆さんにご覧に入れたのは、「午後の紅茶」のペットボトルから、プラカップに数センチほど“紅茶を”注いで、それにハンカチをかけるだけ…。
 軽くゆすってやってから、ハンカチを取り除けるとあざやかに透明な水になっている。パチパチパチ!
 え?ビタミンCはいつの間に入れたのかって?
 それくらいはご自分で考えて! ほら、練達のマジシャンのあなた!

その146「帽子の続き」 (2012/6/4)

 さて、先々回の帽子の話題の続きです。
 欧米では、マジシャンの帽子といえばもっぱらシルクハットであって、決して「ルンペンハット」などではありません。そしてそのハットから出てくるのは、ばねマリやくす玉なんかじゃなく、生きたウサギが定番です。マジシャンの帽子からはウサギが出てくるものだ、というのが常識になっているようです。
 そりゃあびっくりしますよね。生きたウサギなんて!でも、せっかくの高価なハットの中にフンなどしないのかな?余計なお世話か。

 推理作家クレイトン・ロースンに、このウサギをひねって死体にした、「帽子から飛び出した死」というトリッキーな作品があります。
 クレイトン・ロースンは、お得意の密室物などに名を残した推理作家ですが、一方で、自身グレート・マリーニ(メルリーニ)という舞台名を持つ著名マジシャンでした。本格推理小説と奇術はどちらも「不可能興味」などが取扱い品目なので、大変相性のいいジャンルだと思うのですが、実際に作家と奇術師をかねている人はそれほど多くはないですね。
 まあ、ジャンルとしては相性がよくても、文章など個人の才能は兼ね備えるのが難しいのかな?

 日本にはご存知泡坂妻夫さんがいました。直木賞受賞の大作家であり、同時に邪宗門の奇術師厚川昌男氏ですね。しかもこの方の本職は、江戸時代から続く伝統の「紋章上絵師」だというから恐れ入ります。泡坂さんには紋章師としての分厚い著述もあります。名前につられて買ってはみたけれど、僕には殆ど読めなかった。しかし、世に才能豊かな人はいるものです。
 泡坂さんの「奇術師曽我佳城シリーズ」なんか、奇術も推理小説も両方好きな人にとっては極上の美酒と言えるでしょう。いや、美酒といえば、箱根の会に良く来ていた厚川さんは、いつも御酩酊のご様子でしたね。あそこは昼間から飲み放題だったしな。
 もう一つの人気シリーズ「亜愛一郎の転倒」の中の一編に「ねじれた帽子」があります。
 風で吹っ飛ばされた帽子を、あの紳士はなぜ追っかけなかったのか?というささやかな疑問が犯罪を明らかにしていくという、このシリーズ独特の味わいのある一編ですね。
 いや僕も、歩いていたら帽子が風で吹き飛ばされて、人の家の塀の中に入ってしまって往生したことがありました。追っかけましたけどね。
 ともあれ、先のクレイトン・ロースンは、言ってみればアメリカの泡坂妻夫さんといったところでしょうか。

 さて奇術に戻って、帽子のマジックもいろいろあるけれど、もう一つ面白いものとして「帽子タマゴ」というのがあります。生卵をといて、それを帽子の中に流し込んでしまう。その帽子をエイッとかぶるけど、何事もなく奇術師はニコニコ。
 しかしこれ、万一失敗して中にたまごをぶちまけちゃったら、えらいことになる。実際ありましたがね、ネタカップが中で転がってぐちゃぐちゃ…。いやはや、お客の帽子を借りてやっていたら、とんでもないことでした。

 帽子は別にトリックの材料に使うのではなく、単なるステージ衣装の一部としても十分に存在価値がありますね。僕は以前、ふとした気まぐれで、帽子を脳天に乗っけたままステージに出たところ、これが意外の好評。いやその…、マジックじゃなくてね、帽子が…。
 このときご好評の帽子は、実はタイの空港で買った300円(100バーツ)のもの。「いい帽子ですねえ」なんてクラブの人に言われても、恐縮の至りではありました。
 お世辞言われてるの分かんないの?と家ではしっかりご指導頂きましたが…。

 それ以来、帽子そのものは何代目かになっていますが、帽子のステージは定着したままです。今の帽子が気に入って街を歩いていたら、今度は通りすがりの見ず知らずのおっちゃんから「かっこいい帽子ですね」なんて声を掛けられてびっくり。並んで歩いていた人も大笑いで…。
 さて来年も…帽子のステージ、なにやろうかな?

その145「金環食」 (2012/5/28)

 金環蝕をしっかりと見ました。
 空は朝からどんよりと雲に覆われていて、半ばあきらめていただけに、流れる雲の間から黄金のリングがはっきりと見られたのには、感動ひとしきり…。巨大な、そして華麗な天体ショーの真下で、なにか、自分が大きな大きな宇宙の中にポツンと生きていることなんかを、思ったりもしました。
 2012年5月21日午前7時32分、あんな離れた場所でのショーが、予定通り定刻に一秒も違えずに開演されるのもたいしたものだ。出演者の太陽さんも月さんもブタカンさんも偉い!どこかの奇術発表会なんて、平気で5分も10分も遅れてスタートしてたよ。

 しかし、いまさら運命論じゃあないけれど、隕石だろうが超新星の爆発だろうが、一定の物理法則の下でしか宇宙は動かないわけだから、太陽の誕生も地球や月の発生も、そしてこの時間に地球のこの地域で金環食が起こるということも、宇宙創成の時点からきちんとシナリオには書かれていたわけだ。驚きますねえ。ほんと。
 ヘタな予言マジックなんてやっていられない。

 日食が太陽の右側から(左側からでなく)欠け始めて、やがて完全なリングになり、そして左側に月が抜けていく、というのは月と地球の公転速度の差から理解できていたけれど、四国・九州など西の地区のほうが先に始まるというのは、なにか予想外でした。
 地球は東から西へ回っているのに、おかしいなあ!なんて妙なことを思いましたが、これは考えてみればゴク当然(説明は面倒だから省略)。ごくアタリマエのことを不思議に思う、なんてのは、僕にとっては一種の数理マジックみたいでしたね。

 日食―英語ではエクリプス(eclipse)。
 もう随分以前、クロースアップマジックで「エクリプスワレット」と言うのがはやったことがありました。(持ってる人も忘れてるでしょうね。きっと)
 黒いパスケースの中央に丸い穴が開いている。ケースに真っ白なカードを差し込んでいくと、カードの端が穴のところを通るときにだんだん黒い穴が白くなっていくのが見えます(我ながら下手な説明だな)。
 しばらくしてこのカードを取り出すと、これが客の選んだカードに変化している、と、多分そんな現象だったように思います。もう良く覚えていないけど…。ま、現象の割には結構いい値段でしたね。ご他聞に洩れず…。
 しかし昔はこの程度のものを良く買っていたなあ。殆ど使いもしないのに。

 関係ないこと思い出したけど、往年の名画「太陽は一人ぼっち」の原題はeclipse(日食)でしたね。モニカ・ヴィッティの物憂いラブシーンが、なにか哀切でした。

 ところで、金環食が首都圏で見られるのは173年ぶりだとか。
 「首都圏」なんて言われると違和感があるけれど、これはもちろんお江戸です。
 173年前といえば天保10年。ご存知遠山金四郎さんが勘定奉行(この翌年から北町奉行)。江戸の闇には眠狂四郎の魔剣が踊り、そしてあの天保水滸伝…。利根川の流域では、新興やくざ笹川の繁蔵と、大親分飯岡の助五郎のにらみ合いが始まっていたころです。当然、座頭市もそのへんをうろうろしていましたね。(あ、眠狂四郎はともかく、座頭市は実在の人物らしいですよ)
 遠山の金さん、金環食なんかに気がついていたんでしょうかね?その頃、ネットでの情報なんかもないし、小間物屋を探したって日食グラスも売ってないしね。
 「やや?真昼間なのにこの薄暗さはいかが致したものか、コレ!火の元などには気をつけいよ!」
 あのね、日食なんですよ、お奉行。日食!

 「甲子夜話」や「武江年表」とかをひっくり返してみても、どうも天保10年に金環食の記事なんか見当たらないようで、一般の人には別に何の印象もなかったのでしょう。でもさすがに幕府天文方の記録には残されているようです。
 この人たち、どうやって見たのかな?ガラスに煤をくっつけるったって、当時板ガラスなんてなかっただろうしね。

 待ちに待っていた華麗なショーもめでたく閉幕。次の機会には、僕はもうこの世にいない。さてさて、では生きてるうちにあれこれと…。

その144「火」 (2012/5/21)

 最近はマジックのステージで火が使いにくくなっています。
 消防法などにはあまり詳しくはないけれど、会場のほうがなかなか許可をしないようだ。もちろん、恐れながらと消防署に出頭して、素直に仰せに従えばお墨付きが出るのでしょうが、これが結構面倒らしい。
 で、面倒なことは面倒だから…、というわけで、演技の中から火を排除してしまう。タバコも然り、おもちゃのピストルでパアン!と火薬を使うのもいけない。まあ、制限をするほうからはね、なんでもかんでも禁止にしておけば間違いはない。これはいいけどこれはいけない、ナンテ言い出したら、そのボーダーであれこれ一々ややこしい。
 というわけで、火が出てくるネタも多少は持っていても、めったにやる機会はないし、こんなもの家で練習なんぞしたら、消防より恐いムキからドンじかられるし、なかなか手馴れた演目にはならないままに、ワレットもトーチも所詮はお蔵入りです。

 火は思いもかけないときにちょこっと出ると、それだけで客はドキッとして、大変効果のあるものなんですがね。迫力を出そうとしてか、わっしょいわっしょい大げさにボウボウ出さなくたっていい。
 あるショーで、火を売り物にした演者だったのでしょうかね。あっちでもこっちでも、大きな炎がこれでもかと燃え立っているステージがありましたが、なんか見ているうちに目も慣れてきて食傷しちゃうしね。ああ、またあそこも火が出てくるぞ!ダイジョブかいな?ところで、え?これって手品なの?取り出したものが次々にボウボウと燃え出したって、そのこと自体は別に不思議でもないわけだしね。
 「火」という素材を、観客を驚かせるのに使うのではなく、幻想的な美しさを表現するために使って頂けるのなら、これに越したことはないのでしょうが、なかなかそんなステージにお目にかかったことはありません。

 ある小さな劇場で「火を使ってもよろしいでしょうか?」と聞いたとき、その答えが「炎が20センチ以内でしたら結構です」という答えがありました。
 ほかでは聞いたことがないのですが、これは大変リーズナブルでありがたかったことを覚えています。
 イントロに小さなフラッシュペーパーをボッ! 客がどきっとした瞬間にその炎からきれいなハンカチが出現!ま、これも客を一瞬驚かせるために使うという、言ってみればさほどココロザシの高からぬ、「つかみネタ」でしたが、でもこれはこれで結構受けますよね。
 わあーっ!きゃあーっ!すっごーい! エッヘン。
 いや別に技術も何にも要らないんだよ。そんなに受けちゃあ恐縮のいたり…。

 学生時代、火を吹くマジック、いわゆる「法術」を得意にしていて、容顔にあっぱれ大やけどを負ったという武勇伝は以前書きましたが、今となっては、別に消防法なんかでいちゃもんをつけられなくたって、もうそんな恐ろしいことは出来ませんね。せいぜい、フラッシュペーパーをちょこっ!つつましいものです。
 「アラジンマッチ」という着火装置がありますね。どうもショップの商品はときどき着火ミスがあるので、自作したのがなかなか具合がいいのですが、これもあんまり出番がない状態です。

 まあ、今後も「火」は、僕にはあまりご縁がないような感じですね。
 「わが胸の 燃ゆるおもひ(火)に くらぶれば…」などと言ってみたところでね…。

その143「帽子」 (2012/5/14)

 帽子のマジックというと、真っ先に思い浮かべるのはメリケンハットです。ぺらぺらのカラ帽子から、シルクやらタバコやらマリなんぞが次々と出現。これを駕籠に捨てても捨てても、また大きなクス球なんぞが出現します。
 このマジックは単に仕掛けのある道具からなにかを取り出すのではなく、途中途中でネタをロードするという技術的難度があるため、上手下手が表れたりしてなかなか見所のある演目です。
 あまり詳しくはないけれど、ネタロードにもいろいろの「手」があるようで、うまい人がやると、基本的なネタを知っていても引っかかる。あれ?いつ取ったんだ?
 学生時代の僕の仲間の入谷さんは実にうまかった。どこかで書きましたけど、刑務所慰問でのタバコ取り出しの大騒ぎはいまだに良く覚えています。
 ま、これはこれでいいんですが、どうも出てくるものがいつもいつも定番のものばっかり…。またタバコ、またばねマリ、またくす玉…。なんか他に工夫はないのかね?
 なあんて、自分では出来もしないくせに、そんなふうに思っていたら、数年前、小岩の発表会で面白い構想を見せてくれました。ステージ中央にはもみの木が。演者は次々きれいな飾り物を取り出して、そのもみの木にかけていきます。そして最後はきれいなクリスマスツリーの出来上がり。これはなかなかお見事なコンセプトでした。

 ところで、このマジックはどうも外国では殆どお目にかからないシロモノのようです。解説文献などもないらしいし(あの膨大なGreater Magicにも、またターベルコースにも全く触れられていません)、商品自体が大きなショップのカタログにも出ていないようだ。これはちょっと不思議ですね。このマジックは日本で生まれたものなんでしょうか?
 といって、どうも日本語の解説なんぞもあまり見かけない。見聞の範囲が狭いからなんだろうけれど、みかめクラフトの商品解説書ぐらいしか知りません。「奇術研究」のどこかにあるのかなあ?良く分からないけれど。
 もっとも、仮にアメリカにあったところで「メリケン」ハットとは言わないでしょうけどね。アメリカにもともとないもので、もし日本から進出していったとしたら、向こうでは「ニッポンハット」とかいうことになるんでしょうかね?
 そもそも、「メリケン」ハットなんて言うけれど、アメリカ人があんなヘンテコな帽子をかぶっているのなんか見たことがありません。「ルンペンハット」のほうがぴったりくるな、あれは。え?ルンペンってなに?だって? そうか、もうこれも死語なんだ!

 このタイプとは別に、近年出てきたのはバネ花がむやみやたらに、もくもくもくもくと際限もなく湧き出てくる帽子のマジックです。これを始めてみたのは中国人の徐秋というおばさんマジシャンのステージでした。
 これは驚きましたね。ステージ一杯がこれでもかと花花花で埋まってしまった。それもアレコレの道具なんか一切ない、たった一個の女性用帽子から。
 まさか数えているわけにも行かないけれど、少なくとも数百個というオーダーだったでしょうね。ひょっとしたら千以上?いやもっと?

 その後、このマジックは日本でも人気になり、何人かの女性マジシャンの演技を見ました。伊那の水野さんのステージなんか優雅で良かったなあ。こういうのは「ネタ」じゃないね。肝心なのは「身のこなし」だ。
 しかしさすがにこのネタは女性ばっかり。あたりまえだ。僕みたいなおっさんが「優雅な」身のこなしで踊りながらステージを花で埋めたって、見てるほうは気持ち悪いだろうしねえ。おっさんはルンペンハットが分相応かな?

 でも、僕にはやっぱり無理だな。だって、のこのこと帽子をかぶって帽子を持って出てくるなんてヘンテコだものねえ。

その142「奇術研究」 (2012/5/7)

 近頃はもっぱら「マジック」という言葉が主流になって、特にマスコミなどでは「奇術」という言葉は殆ど死語になってしまっているようです。「手品」はまだかろうじて使われているかな?(このエッセイのタイトルも…)
 一般に奇術という言葉が使われている例を探してみると、どうやら寄席の「めくり」ぐらいしか見当たらないようだ。もちろん、「日本奇術協会」や「日本奇術連盟」にはちゃんと残ってますけどね。
 さて、世に奇術・マジック・手品の本や雑誌は数々あれど、その中の最高峰はやはり「奇術研究」であることは衆目の一致するところでしょう。「奇術研究」を知らないでマジックを語るのはもぐりみたいなものだ。え?あなた持ってないの?一冊も?おやおや。
 というわけで、今回はその「奇術研究」について。

 力書房から発行された雑誌「奇術研究」は昭和31年(1956)に記念すべき第1号、そして昭和55年(1979)の最終巻まで、実に86号が発行されています。(これに次ぐものとして東京堂出版の「ザマジック」がありましたが、これも80号で惜しくも休刊になりました)。
 まともあれ、「奇術研究」の全巻所蔵はマジシャンにとっては一つのステータスではないでしょうかね。僕は悔しいことに数冊の「歯抜け」がありましたが、ちょっと前、研究家S氏のご好意で全巻がそろいました。感謝!
 数年前このバックナンバー全巻合本が、(随分いい値段で)東京堂出版から再販刊行されましたから、それでお持ちの方も多いでしょうが、もちろん、こちらももはや絶版になっていると思います。

 奇術というやつは、別段古くなったから使えないなんていうことはなく、昔々のトリックや作品だって、現在只今堂々と現役で活躍できる性質のものです。もちろん、それらをヒントに自分の手順や仕掛けを作るのにも大いに参考になる。
 だから昔の雑誌だから中身が古びてしまっているなんて事は全くありません。アマチュアにとっては、今出来の“新しい”DVDなどのマニアックな作品群などより、よっぽど現役でお役に立ちます。
 取り上げている奇術も特定分野に偏るのではなく、クロースアップのコイン・カードからスライハンドやら取りだし物、イリュージョンにいたるまで幅広いのも、またいい所。

 しかし今、第1号をしみじみ眺めてみると、トリック以外のところにはさすがに歴史を感じますね。
 第1号巻頭は大御所の緒方知三郎博士・石田天海師のエッセイ、それに続く最初の奇術がコインの消し方です。まだトンさんや二川さんの精密なイラストが世に出る前ですから、絵はイマイチですが、技法はきちっと理解できますね。
 一気に飛ばして巻末ですが、「賛助員」というところに、松旭斎天勝や木村荘六なんて名前があるのもさることながら、江戸川乱歩やら将棋14世名人の木村義雄なんて方々の名前が並んでいるのも面白いところです。乱歩が奇術ファンであったことは知られていますし、木村名人は確かTAMC(この当時すでに発足していた)のメンバーだったのかな?
 雑誌本体価格が150円、広告欄にあるサムチップの価格が50円です。まあ、今の十分の一というところでしょうかね。この当時、林研究所の軟質塩ビの高品質なサムチップは、もう存在したのかしら?

 大学奇術部に入って、僕がヨチヨチ歩きで手品を始めたころは「奇術研究」33号が発行された時代でした。当時部室にあったバックナンバーをせっせと読みましたが、17号に出ているバーノンの「4オブアカインド」なんぞは、いまだに僕の重要レパートリーで、活躍してくれています。(しかし、私見ではこれは4Aモノの最高傑作だな)
 それに奇術部の同期である風太郎君が発明した穴あきスポンジボールだって、39号にきちんとクレジットされている。今、マジシャンが普通に持っている穴空きスポンジが発明されたまさにその場に、僕は居合わせましたがね。そんなことも奇術研究を眺めていると思い起こされます。
 雨に降り込められた休日など、本棚から何度も読んだのを適当に何冊か抜き出してきて、“水割り片手”にソファーに転がってぱらぱら眺めているうちに、あれこれ思いついたりする時間もなかなかいいものです。

 え?全巻そろいはどうしたら手に入るかって?
 ネットや古書店にはパラパラとありますがね。全巻はなかなか…。これは持っている人は売ったりしませんからね。それに持っていそうな人は全国的にだいたい分かります。
 ですから密かにささやかれていることがあります。そう、持っている人が亡くなったときがチャンス。ほら、次はあのあたりから出そうだぞ!

その141「かぐや姫」 (2012/4/30)

 仙台のマジッククラブの発表会に行ってきました。
 ちょっと遠いのですが、こちらには大学時代の奇術部の先輩をはじめ、知り合いが多いこともあって、都合がつけば出かけることにしています。楽しいしね。
 去年は震災で一回パスになっていたからか、また一段と気合の入ったマジックショーになっていました。

 ここの発表会の特徴の一つが、毎回「劇仕立て」の演目が用意されていることです。それもかなり本格的な。
 学生や半プロの世界ならワリと簡単に出来るのかもしれませんが、社会人のクラブで「劇仕立て」はなかなか容易ではありません。
 まず、脚本をきちんと書かなければいけない。次にそれに沿って、それぞれ仕事や家庭を持っている人たちを集めて、リハーサルをやらなければなりません。個人の演目だったら個別に都合のつくときにリハーサルをやればいいんでしょうが、「劇」となるとそうはいかない。
 あいだあいだに挟んでいくマジックの部分はともかく、やり取りの部分は出演者がそろわなければどうにもなりません。
 さらに、やっかいなことに「せりふ」を覚えなければならない。これはシロウトには大変なサワギです。ここは部分的に「陰の声」を使うなどの工夫がされていましたが…。
というようないくつかの難条件をクリヤーして始めて「劇」が上演できるわけだ。

ということで、今回の設定は「かぐや姫」でした。
 超美形お姫様が、ガチガチのトウホグ弁なのには抱腹絶倒。実によろしかったけど、それ以上に全体の構成が見事でした。
 求婚者の5人の若者がそれぞれ得意のマジックを披露して姫を争う、という構図も無理がないし、大勢の村人がそろっての「玉すだれ」の踊りにも喝采。そして最後に姫が消えてしまうところではイリュージョンの出番が用意されていました。
 地上から消えてしまったお姫様が、客席の後から再登場。そして若者の一人とめでたく結ばれるというハッピーエンド「かぐや姫」でした。え?なに、年の差なんて!この際。

 それにしても「かぐや姫」は「家具屋」の娘だとは知らなかったなあ! だからおじいさんは商売用の材料を探しに竹やぶに行ったんだ。なるほど。

 僕の故郷は静岡県の富士市なのですが、ここは「かぐや姫」の里ということになっています。市のパンフレットにも堂々と載っている。姫様出現の竹やぶだって「竹採公園」として今に残っているのは立派なものだ。まあ、浦島太郎や桃太郎にだって、ちゃんと出身地や故郷があるんだから、「かぐや姫」にだって故郷があったっておかしくはありません。
 僕はてっきり、あれは富士山麓の「竹採公園」での出来事だったと思っていましたが、今回の「劇」を見ると、どうやら僕の勘違い。メンゴイお姫様はイワデの山オグでオガッタ方のようでした。これは富士市役所に教えてあげなければ。

 しかし、こういうのはやっぱり構想・脚本から始まって、スタッフ・役者がそろってはじめて出来ることなんでしょうね。と、拍手拍手の北帰行でした。

その140「なくて七癖」 (2012/4/23)

 本や新聞紙のページをめくるときに、指先をペロッとなめる方がいます。指先に適当な湿気や脂気がないとめくりにくい、というご事情があるのでしょうが、これはそんな実質よりも、ただなめるのが癖になってしまっているのでしょうね。
 とはいえ、どうもハタから見ると、あんまり感じのいいものじゃありません。マジックなんぞをやろうとする方は、こんな癖は早めに直しておいたほうが良さそうですね。
 あるアマチュアのステージで、新聞のマジックを始めたのはいいが、途中でついいつもの癖が出て、指をペロッとやってしまった。おやま…。いや、お客は別に何にも言いはしませんがね。
 まあ、いかにもアマチュアらしくてほのぼのしてる、なあんてご感想もあったりして…。

 逆の話。
 先日、僕がカードマジックをやった時のことです。一組をパラパラッと得意になってブリッジで飛ばして、フェイロシャフルなんぞを見せた後、さてさてきれいにスプレッド。
 「では、どれでもいいですから一枚とってくれますか?」と、おなじみのせりふとともに一人の客の前に差し出したところ、いきなりご自分の指先をぺろっ!
 ありゃりゃ!とは思っても、時すでに遅し。
 「あ、それでいいですか?今なら変えていただいてもいいですよ!」と、ニコニコ顔を崩さずに…。う、新しいデックだったのになあ…。

 「指ぺろ」だけじゃなく、なくて七癖、いろんなしぐさの癖があります。
 グラスを持ったとき小指を立てる癖、これはマジシャンには多いし、まあ、適当に気障にかっこよく見える事だってあります。この間も、昔のマジシャン仲間の宴会で、「カンパーイ!」というと、全員小指が立っていたりして…。おいおい。
 でも、カラオケのマイクを持ったときに、小指を立てるのはどうもいただけないね。こういうヤツがまた中途半端にうまいのも、なにか腹が立つ。近頃カラオケとも縁がなくなってきたからまあいいけれど…。

 落語にも「四人癖」やら「二人癖」など、「癖」の話も多いのですが、時々使われるマクラに、こんなのがあります。
 「世の中にはいろんな癖の人があるもので、中には挨拶をしながらたたみのケバをむし
る人がおりますな。
 “どうも、このたびは…(むしっとケバをむしる動作)、大変にお世話に相成りまして…(むしっ)”
 “あなたあなた、ご挨拶はいいが、畳のケバをむしっちゃいけませんよ。この畳は替え
たばっかりなんだから”
 “ああ、お替えになって?そうですか(笑顔) 道理でむしりにくいと思った!” 」
と、この噺は三遊亭円生が最高でした。

 とまあ、自分の癖というのは分からないものですから、「指ぺろ」に限らず、ヘンテコな癖をステージでつい出してしまう、なんてことがないよう、よく親しい人なんかに見てもらったほうがいいかもしれませんね。
 え?ぼく? 動作の合間合間に、意味もないのに右手をピーンと立てたり…なんて…、してないよね。

その139「いちゃもん」 (2012/4/16)

いまや春爛漫。今年も菜の花がきれいでした。

 「ちょうちょ」(野村秋足)
   ちょうちょ ちょうちょ 菜の葉にとまれ
   菜の葉に飽いたら さくらにとまれ 

 おなじみ「ちょうちょ」ですが、この歌何か変ですよね。菜の「葉」になんかちょうちょはとまらない。菜の「花」にとまれ、では語調が悪いからそうなっているんでしょうが、これはやっぱりおかしい。当のちょうちょだって、せっかく「花」の蜜でも吸おうとしているのに、「葉」にとまれ!なんて言われるのは、迷惑な話です。
 歌詞で単に語調合せのために、こういうイイカゲンをやっている例は他にもたくさんあります。と、きれいな「菜の花」からあれこれ余計なことを思い出して、今日はいちゃもんと揚げ足取り…。

 大ヒット「シクラメンのかほり」(小椋佳) 
    うすべに色のシクラメンほど すがしいものはない

 “すがしい”なんて言葉はないでしょう。“すがすがしい”なら分かりますがね。“すがすがしいものはない”では間延びしちゃうからでしょうけど、これもやっぱり言葉としてはでたらめだ。日本語を破壊するな!
 “わかわかしい”を“わかしい”なんて言ったり、“たどたどしい”を“たどしい”なんて言ったらおかしいよ。やっぱり。知っててやっているのか、知らないで間違っているのか。まさかねえ。

 同じくお古いところで「寒い朝」(佐伯孝夫)
   北風吹きぬく 寒い朝も

 北風は“吹きぬけて”は行くでしょうけどね。吹きぬいたりはしません。変だ変だと思いながら歌ってたんでしょ。小百合さん!

 昔はやった「大阪で生まれた女」(BORO) いい曲ですがね。
   大阪で生まれた女やさかい 東京へはようついていかん
   踊り疲れたディスコの帰り 電信柱にしみついた夜

 電信柱に“染み付い”ちゃったりしちゃあいけない。それじゃあ、おしっこでも引っかけたのかと疑われる。ここはどう見たって “しがみついた”のでなきゃあ話がおかしい。恋人と別れるかどうかというせつない場面で、おしっこなんか引っかけちゃまずいよ。
 まあ、この程度の歌詞にメクジラを立てることもないのですが、有名なスタンダード唱歌にも変なのが堂々とまかり通っています。

 「ピクニック」(萩原英一訳詞)
  岡を越えゆこうよ 口笛吹きつつ
  空は澄みあおぞら 牧場を指して
  うたおうほがらに ともに手をとりランラララン

 これもおかしい。「ほがらに」なんてえ日本語はない。日本語は「ほがらかに」です。でたらめやるな!
 カードが“あざやに”出現したりしないし、マジシャンが“にこやに”笑ったりなんかしません。“あきらに”間違ってる。いいかげんにしてくれ。

 え?いちゃもんはいいけど、古い歌ばっかりだなあ!って?
そりゃそうです。新しい歌なんぞ、良く聞き取れないし、仮に聞き取れたところで、ろくに「歌詞」にもなってない。がきんちょのつぶやきを刷き集めたみたいなのばっかりで。
   会いたかった!会いたかった!イェイ……

 と、「認知症」って言葉に噛み付いたり、歌詞なんぞにいちいちいちゃもんをつけたり、民主党のテイタラクにむかっ腹を立てたり、国会でのAIJとかいう詐欺師の鉄面皮なイイワケにかっとなったり…。
 一介の手品のおじさんとしては、テジナのお仕事の合間合間にあれこれ腹も立てねばならず、結構忙しい毎日ではあります。ふー!

その138「ひげ」 (2012/4/9)

 数年前、完全リタイアして毎日が日曜日になったとき、一つだけ自分で決めたことがある。―「毎日ひげを剃る」―ただこれだけ。
 毎日、用もないのに、見飽きた顔を覗き込んでジョリジョリやるのも、面倒といえばまことに面倒な仕事であって、自ら固い決意でもしておかない限り、その面倒くささについかまけ、無精ひげにうずまってしまいそうな危険も多分にある。
 世間様では生活のパターンが変わるときに、運動や規則正しい日常やら、いろいろと新しい生活態度などを決めるムキも多いやに聞いているが、どうも我ながら随分ココロザシの低いことで気が引ける。
 しかし幸いこの断固たる決意は三日坊主に終わることなく、今に至っている。おかげをもってか、無職・プータローの身の上ではあれど、これまでホームレスに間違えられたことなどは一度もない。
 ホームレス諸氏というのは、そのソサイエティの申し合わせ事項であるらしく、皆さん律儀にひげや髪の毛をボウボウに伸ばして、身を整えておられる。うっかりひげなど剃ったりしていたら、あいつ変わり者だと、仲間に入れてもらえない恐れがあるのかと推察される。サッカー元全日本のラモス氏や中沢氏などは、このホームレス諸氏の仲間に入れて欲しげなスタイルが、お好きなようでもある。

 それに、僕がブショウ髭なんぞ蓄えていたら、どうも凶悪な人相になりそうな予感もする。髪の毛が人より少なめであることは、自分でもうすうす気付いているので、これは余計に留意せねばならない。なにしろ、目つきが悪く、頭の毛よりブショウひげの方が多い人物など、悪漢ズラの代表みたいなものだから、関内や石川町あたりでウロウロしていれば、すぐに職務質問にあいそうだ。
 「え?なに?あなた手品の関係? テジナだって?フーン!? そのかばんの中はなんなんですか?」

 そういえば、新聞に出てくる犯人どもの顔写真は、どうして皆がみな凶悪な相貌をしているのであろう?どんな悪漢だって、ニコニコしている写真なんかも絶対にあるはずなのに、そういうのは紙面には使われないようである。やっぱり凶悪犯が人柄良さそうに、うれしそうに笑っている写真なんかじゃ具合が悪いんだろうなあ。
 犯人の顔写真を探す記者だって大変だ。
 「あの、もっと悪そうに見える写真はありませんかねえ! え?このピースしているのしかないの?この写真じゃあ使えないなあ!」

 マジックの演出上では、どうもメンタル系・超能力系の演出にヒゲが似合いそうな気がする。ミスターマリック氏やマックス・メイビン氏の、あやしげな、そしていかがわしげなひげスタイルは、ご自身を超能力者であるというような演出に、かなり効果を上げているようにお見受けできる。
 一方、スライハンド系にはひげなんかは要らないね。チャニングポロックやランスバートン、それに我がクラブの元全日本チャンピオン氏など、髭なんぞはないほうがいいに決まっている。
 え?Kさん、ちょび髭はやしたいって? そりゃま、案外似あうかもしれないけどねぇ。

その137「紙切り」 (2012/4/2)

 寄席芸の色物の一つに「紙切り」があります。どなたも一度や二度はごらんになったことがあるでしょう。
 舞台に上がった師匠はたった一枚の紙だけを持ち、お客から注文を受けて、その場で切り絵を切っていきます。わずか2,3分で出来上がりますが、出来上がりを客席に見せた瞬間、そのアザヤカな出来栄えに客席から思わず感嘆の声が上がるのは毎度のことです。
 これは江戸時代からある芸のようなのですが、現在の第一人者は三代目林家正楽師匠。この方は本当の名人ですね。人間国宝にしてもいいぐらいだ。他にも先代正楽師の息子さんの二楽師匠やら、女性も含め何人もの紙切りの芸人さんがおられます。

 どんな注文にだって即座に応じられるのは、ご商売とは言いながら見事なものですが、どうも、肝心なのはご注文の「モノ」そのものを描こうとするよりも、そのモノが登場する「情景」を描こうとしているようであって、さらにそこに江戸の情緒やら懐かしいような風景を切り出していくところに、なんともいえぬ妙味があります。
 例えば、クラシックでは「四畳半」とか「隅田川」なんてのは人気の定番ネタで、前者だったら日本髪の女性との差し向かいで「おひとつどうぞ」なんて言われている図。そして後者だったら川べりの屋根舟を前に芸者衆が橋の向こうの花火を見ている図なんかがあっという間に完成します。
 中には演者の困った顔がみたいのか、ヘンテコな注文を出したりするお客もいますが、何を出されたってちっとも困ったりはしない。今風のお題で「リストラ」だとか「AKB」なんて出されたって、きっとにこやかスイスイと…。
 先日、おかしな客が「かさぶた」なんて妙な注文を出しました。
「かさぶたですか?これは私も始めていただいたご注文ですねえ」なんて笑いをとりながら師匠は軽やかに切って行きます。どんなのが出来るかと思ったら、お母さんが子供の足の怪我を手当てしてやっている図柄がきれいに出来上がって、大拍手でした。

 切った絵柄を注文者にいただける、ってのもありがたいコンセプトで、実はこの正楽師匠に、私も寄席で注文をさせてもらいました。
 このタイミングが難しいのですが、いいところで大声を張り上げて、「胡蝶の舞!」と。
しばしの後、太夫が舞台でセンスを仰ぎながら蝶を浮遊させている図が見事に出来上がり、いつものようにこれを注文者である私がかたじけなく頂いてまいりました。
これに味を占めて、寄席で正楽師匠の出番があるのを楽しみにして、マジックの舞台姿を切ってもらいました。
 一つは「トランプ手品」。これは花島世津子さんのステージをモデルに、女性がミリオンカードを演じている図。そしていま一つは「水芸」。これも女性の太夫が扇の先から水を噴出させている図柄です。今のところこの3つしかないのですが、もう少し寄席に行く回数を増やして、師匠にマジックオンパレードを切ってもらって、そのうちに「手品切り絵」の展示会などをやらせてもらおうか、などと夢想しています。
 その節はよろしくお願いしますね。師匠!

その136「がっくり箱」 (2012/3/26)

 今年の横浜マジカルの発表会では、プロローグに手作りの「おもちゃ箱」を登場させました。カラの箱からいろんなおもちゃが出現する、おなじみの仕掛けです。いや別におもちゃじゃなくたって出て来るんですがね。入れとけば。

 これは通称「がっくり箱」と呼ばれ、この箱の仕掛け自体は江戸時代からあるのですが、これがブレイクしたのは明治の世。
 時は明治15年、場所は名古屋大洲の桔梗座です。亜細亜卍(マンジ)という、いささかいかがわしい芸名の芸人が小屋にかけたのが「一里四方物品取寄せ術」というもので、これが大評判を呼びました。つまり、「一里四方にあるものなら、お客の希望の品を即座にこの唐櫃の中に取り寄せる」というものです。
 ナントカ屋のまんじゅうなどはご愛嬌ですが、中には四辻のお地蔵さんなんてご注文もあったとか。それでもまあ、ナントカ切り抜けたんでしょうね。

 これが大受けだったのを見て、この仕掛けをお狐様と結びつけ、「稲荷魔術」と銘打って大当たりを取ったのが二代目中村一登久、後に芸名を改め神道斎狐光でした。
 演者狐光は衣冠束帯の神官姿で登場します。舞台中央の「箱」にはうやうやしくしめ縄がかかっており、なにやら物々しい雰囲気です。
 「さてこれより御覧に供しまする稲荷魔術は(中略)世に言う理外の理、神変奇特奇抜なる事の実在を示すのであります。稲荷大明神ご信心のいずれも様には先刻ご承知の通り、稲荷様お召使の霊狐、ご眷属には、一分間たたぬ間に何十里何百里と隔たりましたる所より如何様なる品でありましょうとも携え立ち帰るとございます」(石川雅章氏の著作より)

 とまあ、なんともいいねえ、この古めかしさ。しかしこの口上はこんなに簡単には終わらない。もっともっと長々と、えんえんと続いて観客をじらしていきます。香具師の手口に近いけど、このへんが「芸」なんだろうね。それにしても、「神変奇特」たァなんだ、いったい?

 つまり、これは演者が何かするのではなく、稲荷大明神様の使いである「おキツネさま」が、あちこちからいろんなものを取り寄せてくる、という演出ですね。
 さて後見が客席に入って、用意したたくさんの白紙を配ります。これにお客が思い思いにいろんなものの名を書き入れます。当然ながら訳のわからないモノがたくさんあるのですが、これらを「全部は無理だから」という理由でいくつかを選別します。
 この「選別」の仕方は、皆さんよくご存知、いまではメンタルマジックなどであれこれ知られた手法ですから、まあ、たわいもないといえばたわいもないのではありますが、昔の人は純情だったんでしょうかねえ。
 重要なのは、「箱」自体には何の注目も集めてはいない、特別に用意された不思議な箱であるとか、霊験あらたかな箱であるとかは全く言っていません。あくまでもおきつね様が不思議な現象を起こすんであって、箱は単にとってきたものを入れるだけの役割にしか過ぎない。「どうです!不思議な箱でしょう!」などというコンセプトでないのは言うまでもありません。
 「マジックで一番重要なのは『トリック』ではない、『演出』なのだ」というのは、かのマックス・メイビンの言葉ですが、まさにこの言葉を地で行っている感があります。しかしこれはいい言葉だな。ほんとに。

 まあ、ともあれ、「おきつね様」の霊力がショーとして成立したんだから、いい時代ではあったんでしょう。今僕がこんなことやったって失笑を買うだけだろうけどねえ。

 さてこの「がっくり箱」、商品として売ってはいるのですが、今回のように4人で使うにはいささか小さ過ぎ、それに悪いけどえらく高い。こんなものは基本構造は分かっとるワィ!ってなことで、それなりに大きめにして自作を試みたのではありますがね。
 簡単な図面にある構造で作ってみると、どうもこれは角度に弱すぎる。がっくり部分を少し傾斜をつけて内側に絞らないと、現実的ではないようでした。え?何のことだか分からないって?いいんですいいんです。分からなくって!
 それに箱を倒したときに中がカラである事を見せ、これをすんなり元に戻すには相当精密な工作が必要でした。なかなかうまく行かず、作り直して作り直して…。子供の時分に親から、ぶきっちょだぶきっちょだと言われていたワタクシとしては、慣れないのこぎりやらヤスリやらかつぎ出して、せっせせっせ…。
 基本的な構造を頭で理解していることと、実際に実演可能なものを作ることでは、天と地の違い。つまり、分かってりゃ出来るなんてものではない、なるほど、これは売りネタは高価なわけだ!と改めて納得しました。

 それでもエッチラオッチラ、まあなんとか使えそうなものをでっち上げて、ステージに乗っけることが出来たのはご同慶の至り。本番で使って頂いた皆様お疲れ様でした。
 それにしても「箱」から最後に出現したのは、「猫のようなタヌキ」なのか、「タヌキのような猫」なのか?それともひょっとしたらあれは、かのおキツネ様が化けたのかしら?
 いやいやどうも、失礼致しました。ガックリしましたか?大先輩、亜細亜マンジ師匠!

その135「不思議2」 (2012/3/19)

 さて「不可思議」の続き。
 4枚のエースの並べ方を数えてみましたか?
えーと、ダクハス、ダクスハ、ダスハク、ダスクハ………そう、指を折っても数えられますね。正解!24通りです。意外と多い?意外と少ない?

 では今度は52枚のカードを、それぞれ異なった順番に並べるには、いったい何通りの並べ方があるか数えられますか?
 そうそう、これも計算は簡単ですね(指ではちょっと無理だけど)。52の階乗(52!)です。簡単な計算だったでしょ!おなじみの分かりやすい数字で分かりやすく書くと、
80,658,200,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 通りです。エクセルで計算したんですがね。指を折ってではなく(^。^)。

 もっと簡単に言えば、百万の百万倍の百万倍の百万倍の百万倍の百万倍の百万倍のそのまた百万倍の百万倍の百万倍の百万倍の80倍ですね。うん。それでいいんだ。だいぶ分かりやすくなった。
 これは8x1067通り、つまり8000x1064通り、すなわち漢字で書けば「八千不可思議」通りになります。おやこんなところにも『不可思議』は出てきた。
 ほら、だからやっぱりカードは不思議なんだ!カードマジックには8000通りの不可思議がある! あ、意味が違うよ!

 まあ、8000通りはともかく、「カードマジックいくつ知ってるんですか?」なんて聞かれると、これ案外答えに困りますよね。
「いやあの…たくさんありましてねえ。いくつって言われても…うーん!」
なんて、マゴマゴしてると、あんまり知らないのをごまかしてるみたいにも聞こえたりして…。
 それに、カードマジックなんて、数知ってりゃいいってモノでもありませんしねえ。ロクでもないのも多いし…

 ついでにいうと、上のような気が遠くなるような桁数の数字は、今、銀行や軍事などの高度暗号化技術では普通に使われているようですよ。なんと、10308の素数を使った公開鍵暗号、なんてね。
 とは言っても、防衛庁あたりで
 「幕僚長!今度の暗号は7万不可思議桁ですから絶対大丈夫です」
なんて会話がされてるわけはないけれど…。
 『バカモノ!まじめに仕事しろ!』

その134「不思議」 (2012/3/12)

 「不思議だねえ」「あら!ふしぎふしぎ!」
そう、マジックと「不思議」は切っても切り離せません。今日はこの「不思議」という言葉の不思議について…。「不思議」ってどういう意味なんだろう?

 「不思議」とは正確には「不可思議」という言葉ですね。これは数字の単位です。え?なに?数字だって?
 そう、これはまさしく漢字表記の数字の単位です。以下、数字に苦手な方はパスでどうぞ。僕もあんまり得意じゃないんだけど…会計の方なんかは得意分野だろうけどね。

 日本語(漢字)では数字は4桁ごとに繰り上がっていきます。
万(10)、億(10)、兆(1012)あたりまでは普通に使われますし、京(1016)も最近のスパコンの話題でおなじみになっています。しかし、当然ながらこの上だって有るんですね。
 垓(1020)、じょ(1024)、穣(1028)、溝(1032)、澗、正、載、極、と4桁ごとに続き、さらにその上が恒河沙、阿僧祇、那由多、と続いていきます。
 (この間、法事に参加したら、お経の中に恒河沙(ごうがしゃ)なんていうのが出てきてた。そりゃまあそうだ、『むにゃらむにゃら10の52乗がどうしてこうして妙法蓮華きょ〜お』なんてんじゃ、やっぱりまずいでしょうねえ)
 そして最後の一つ前が「不可思議」(1064)です。もう一つ無量大数(1068)というのがドンジリに控えていますが、つまり、漢字での有限数の最大のひとつ前の単位が「不可思議」なのです。

 さてでは、一不可思議(いちふかしぎ)とは一体どれくらいの数字なのでしょうか。これを、よくやる1万円札を積み上げた時の高さで考えてみよう。つまり、仮に100万円の厚みを1センチとしたとき、一不可思議円分ではどれくらいの高さになるんだろう?
 106円が1センチですから、一不可思議円の高さは1058センチメートルになります。
富士山?地球?太陽の大きさ?いえいえとんでもない。
 光の速さは1秒間に30万キロメートルです。太陽から地球まで、光は約7分間かかる。この光が1年間に進む距離が1光年ですね。ふわー!気が遠くなるくらい遠い!しかしこれで気が遠くなるにはまだまだ早い。

 間違わないで下さい。1光年というのは時間の単位ではなく、距離・長さの単位ですよ。で、この1光年は何センチかというと、たった9.5x1017センチにすぎません。漢字で書けば九五京センチメートルということになる。まだ「京」だ。
 では「不可思議」は太陽系全体?銀河系全体?いやまだまだまだ…。地球は太陽系の中のちっぽけな惑星、その太陽系全体は銀河系宇宙の中のちっぽけな惑星系です。太陽系みたいなやつが何千億個も集まって我々の銀河系を作っており、その銀河系ほどの宇宙がまた何千億個も宇宙には散らばっている。(という話だ。見たわけじゃない)

 今、地球から観測できる最も遠い天体はなんと130億光年の彼方です(これは理論的に限界らしい)。光のスピードで130億年かかるところですね。130億年だ!ふーっ!
 実際には宇宙全体は膨張を続けていて、この辺は地球からは光速で遠ざかっているんですが、まあ、一応これが観測できる宇宙の限界。そりゃそうだ。光速で遠ざかってるところを光で観測できるわけはない。いや宇宙そのものの限界って言ってるんじゃないんですよ。単に〔地球から観測できる〕宇宙の限界です。
 そしてこの130億光年をセンチにしてみてもたった1.25x1030センチメートルにしかならない。一不可思議円を重ねると、宇宙の果てのハテよりはるかはるか遠いところだ。
ねえ、マジックであなたが実現してる「不思議」ってなんだかすごいと思いませんか?

 と、世間離れした話に、しばしボウゼンとしたあなたにもっと身近な話題を。
4枚のエースを夫々異なった順番に並べるには何通りあるでしょうか?
以下次回。

その133「耳の機能」 (2012/3/5)

 先日、教室に参加している女性が、何人かで聾者の施設だか会合だかに行って、マジックを見せてきたという話を伺いました。そして大変喜ばれたとか。
 それは良かったですねえ、と言いながらフト思いましたね。

 僕自身も、ボランティアでいろんな施設やら会合やらに行って、マジックを見せることは良くあるけれど、耳の聞こえない人たちのところというのは経験がありません。しかし考えてみれば、マジックというのはそういう方たちには喜んでもらえるでしょうね。きっと。
 エンターテインメント関係のボランティア・慰問なども、いろんな種類があるけれど、相手が音が聞こえないとなると、極端にその種類は少なくなってしまいます。
 童謡・歌謡曲や民謡はもちろん、ギターや最近多い大正琴などの楽器類、さらに各種の語り物、落語・講談・ナニワブシ・朗読などなどなど…。かなりの芸能が、音が無ければその良さは全く伝えられません。
 これらのいわゆる「芸能」の中で、マジックだけは最強だ。音もせりふも全くなくたって、演目を選べば、それなりに不思議さ・楽しさを感じ取ってもらうことは出来ます。
 もちろん、手話通訳という手段もあるのだけれど、直接に演者の演技そのものを楽しんでもらえるのは、マジックぐらいしかないんじゃないかな? あとは、ジャグリングぐらいかな?
 と、これまで気がつかなかったことですが、聾唖者のような方々には、我々のようなしろうとマジシャンだって、随分お役に立ちそうな気にもなってきました。
 僕なんざ今まで、さほど世の中のお役に立った気分もないのでね…。現役の時分は、言ってみれば波風の中で生き延びていくのに必死で、ただマゴマゴしてただけですし…。リタイア後ぐらいは、せめて自分のささやかな“能”で、いくらかでも人さまのお役に立つように、さあ張り切っていきましょう。

 ところで、僕自身は別に聞こえないわけではないけれど、昔からどうも耳の弁別機能が人より劣っているような気がしています。声として聞こえてはいても、時々内容がゴチャゴチャと混じって良く聞き取れないことがある。
 別に加齢でそうなったわけではなく、若いころからそうだったから、これは単に入口のフィルター機能が不十分なのかもしれない。それとも、鼓膜が「ツラの皮」みたいに厚くって、感度が鈍いのかな?
 映画では「七人の侍」が最悪。録音も悪いんでしょうが、農民たちがモゴモゴ言ってるのがほとんど聞き取れません。それで残念ながら、せっかくの大傑作の価値が大いに減じてしまっています。

 英語の聞き取りなんかはもっと状況が悪い。酒の席なんかでは、イイカゲンに相槌を売って、ニコニコしてオーケーオーケー、ベリーグッド!などとやっておけば済むことも多いけれど、ビジネスではそうは行かない。耳の弁別機能の悪さは、まことに困ったものではあって、ソーリー!ワンスモアプリーズ!なんぞは得意のせりふでした。

 え?なに?どうせ日本語だって英語だって、人の言うことなんかロクに聞いていないで、自分だけまくしたててるんじゃ、おんなじ事だろうって?
 いや、よく聞こえないけど…。

その132「田中さん」 (2012/2/27)

 今年の芥川賞を受賞した田中慎弥さんの言動が、このところ随分注目を集めています。そのトンガリぶりやら、すねたような物言い・態度などが、これまでと全く違った新鮮さで人気沸騰。いわゆる人格円満・周囲への気遣い、などとは全く無縁のお人柄ですね。なんか、ファンクラブが出来そうだ。作品とは無縁に…。
 その風貌もなかなか上出来で、いわゆる「ひきこもり青年」を絵に描いて皿に盛ったような男マエが、存分に新しい魅力を発揮しています。以前ノーベル賞をもらった、穏やかで控えめな「田中さん」とはえらい違いだ。

 まあ、こちらは小説家ですからねえ。
 別に、人当たりが良かったり優しい人格であったりしたって、そんなことは作品の良し悪しには全く無関係でしょうし、企業や役所みたいに組織で仕事をするわけじゃないから、周りへの気配りなんかも全く必要はないでしょう。好き勝手、言いたい放題、自由奔放…いや実に面白い。
 僕自身は、いわゆるベストセラーやら話題の本というのは、昔から手に取る習慣を持っていないので、この受賞作も拝読していないのではありますがね。このトンガッた言動が注目を浴びるにつれて、御著書の売り上げもうなぎのぼり…。増刷に増刷を重ねている由。だいたい純文学の小説なんか、近頃それほど売れるものではないのでしょうが、今回ばかりは様子が違って、出版社は笑いが止まらないようです。
 へたなサイン会なんぞで人集めをするより、著者自身がこれほどの宣伝媒体を勤めてくれるとは、さすがの文芸春秋も想定外ではなかったでしょうかね?
 ま、実にご同慶の至りで、今後の大作家のご活躍をお祈りしましょう。

 今一人、最近話題を集めている「田中さん」がおられます。そう、新防衛大臣だ。言い間違いやら失言やら、国会でのきょろきょろ自信のなさそうな言動などで、これまた、いまやマスコミの餌食になった感があります。
 事務方から「大臣、メモを見てコメントするのは別に恥ずかしい事ではないですよ」と、聞かされたら、『この件は私が決めます』と言うのだけを、メモを見ながらコメントされたのだそうな。拍手!
 しかし、この程度の人物に、国の防衛なんかを任せておいていいのかねえ?ずいぶんノーテンキな平和な国なんだなあ?誰かが狙ってるよ!野田さん!
 前の、一川という失言大臣の首をすげ替えたのがこれじゃあ、民主党の「政治主導」も泣けてくる。もともと、人材不足なんだねえ。
 だいたい、「マキコの旦那」というところからして、無気力・無定見、さしたる能もないのは、はじめから分かったことでしょうしね。
 真紀子さんという人物は、偉大な親父の威を借りて、家でも外でもやたら威張り散らすだけで、自分では何の仕事もこれっぽっちも出来ない方のようで…。その物言いが時に痛烈であるだけに、一時おおいに期待されてた人だったのに、小泉内閣ですっかり馬脚を現してしまった。いやま、人の悪口を言わせたらいまでも天下一品ではあるけれど…。あれはもはや「芸」の域に達しているな。
 おっと、僕も悪口はこの辺で。

 ところで「田中さん」というマジックご存知ですか?
 そう、紙を折っていってスパッと切ると、そこに『田』と『中』が出現するヤツですね。どちらの文字も縦横の線だけからなり、そして完全な線対称であることを利用したアイデアです。まあ、マジックというより、一つの「紙切り遊び」の分類なんでしょうが、こんなのだって覚えておくと結構重宝です。
 マジシャンの田中さんや中田さんにとっては勿論ですが、観客の中にそのどちらかがおられるのを知っている場合などにも、大いに有効に使えますね。

 そうだ、田中慎弥さんの前でこの「マジック」をやってみよう。
 「はい、『田中』さんの出来上がりで〜す!」にこにこと…
 『あなたはいったいなんなんですか?! とっとと消えてください!』ムスッ…

その131「はやぶさ」 (2012/2/20)

 「はやぶさ―遥かなる帰還」を見てきました。これは想像以上によく出来た映画で、感動ひとしきり…。劇場の暗がりで、何度かハンカチなどを取り出しましたね。不覚にも。

 ストーリーはいまさら言うまでもない、超困難なプロジェクトの、幾多の挫折とその果ての成功物語です。火星よりも遥か彼方の小惑星まで宇宙船を飛ばして、そこの岩石のサンプルを持ち帰る、その分析で太陽系成立の謎に迫る、っていうんだから、話は壮大です。
 やっていることはすごいのですが、登場人物はごく普通の生活を送っている普通の人々。ただし、めちゃめちゃアタマのいい人たちばっかりで…。
 いまやすっかり国際俳優となった渡辺謙が、派手な演技を抑えた渋い学者役で、いい味を出していました。脚本もあまり家庭やら人間関係やらでゴチャゴチャさせず、科学技術の最先端の困難さを、正面から描こうとしているのにも好感が持てました。
 ま、言ってみれば一つの「予定調和」の物語で、結末は初めから分かっているのですが、そこに落とし込むまでの話の運びや演出に工夫があるので、ついつい引き込まれてしまいます。
 それにCGが迫力を出していましたね。最新のコンピュータグラフィックスも、おどろおどろしい怪獣やら、巨大な天変地異などに使われると、ウワァ!と言うだけですぐ飽きてきちゃうけど、こういうものに自然に使ってもらうといい感じがします。つまり、せっかくのCG技術を、「どうだ!すごいだろう!ほらほら!これでもか!」という風に使うケースが多いからね。ハリウッドなんか特に。

 笑っちゃったのは、「太陽系の成り立ちなんか分かったとして、それがなんなの?」という、お役人のせりふでしたね。まあ、「事業仕分け」じゃないけど、予算をつける側から言えばそうなんだろうなあ。いや、実は僕も半分以上同感なんですがね…。130億円も使うなら全国に保育所でも建てたら?なあんて思ったりしてね。
 とはいえ一方で、原発事故の賠償金額なんか聞いていると、130億円なんてわずかの金に思えてきたりもしますけれど…。奇妙なものだ。

 この「はやぶさ」から目的の小惑星「イトカワ」の鮮明な写真が送られてきたときは、僕も以前新聞で見ましたが、随分驚きました。
 ぶっといカリントウみたいな、長細いジャガイモみたいな…。「惑星」というからには、いくらかは丸いのかと思っていたのが、全く奇想天外なおかしな形の「星」でした。
 この形はどうも、小惑星というのは夫々が独立に出来た星ではなく、もっと大きな星が爆発分裂して出来た破片のように、僕には思えました。夫々独立に、火星や地球みたいに出来てきたなら、自然にもっと丸みを帯びるのだろうしね。
 大小合せて50万個ほどの小惑星群というのは、全部が火星と木星の間に集中しています。小惑星などがまだ発見される以前、たしかケプラーかガリレオかの仮説にあったのですが、火星と木星の中間には、一定の質量の惑星があって良い、いやなくてはならぬ、という推論を昔読んだ覚えがあります。
 遥か遥か昔、火星と木星の間に存在した大きな惑星が、なんらかの原因で爆発、そして飛び散った破片が小惑星群になったという仮説が、まさに事実のように思える「イトカワ」の奇妙な形態ではありました。

 映画を見ていて、くすっと笑ったのは、この写真を見たときの研究者のせりふでしたね。
「ヘンテコな形してるなあ?『イトカワ』って名前だけあって!」
 漏れ聞くところでは、ネーミングの由来となった糸川秀夫博士という人は、随分ヘンテコな変わり者だったらしい。宇宙工学の天才であることは間違いないのだけれど、晩年は変なトンデモ本を書いたり、またバレエなんぞに凝って、老人のくせに白塗りで、あの、男の急所もっこりのタイツスタイルでステージで跳ねまわって、周囲の顰蹙を買っていたとか…。落語の「寝床」だね。見たくないなあ。
 物理学のお弟子の俊秀なんか、むりやり「鑑賞」させられて、さぞ困っただろうねえ。
 「先生!あの…今日の『ロミオ』は特別素晴らしかったですよ。イヤほんとですよ!お世辞でなく…」
 僕も手品でこんなこと言われないように気をつけよう。いやま、「お弟子」なんざいないからいいけれど…。

 とまあ、最後は少し脱線したけど、「はやぶさ」は脱線もせずに、予定より3年遅れ、満身創痍で地球に帰ってきました。
 大気圏で燃え尽きていく「はやぶさ」の航跡を見ながら、「帰ってきたよ!帰ってきたよ!」と涙ぐむ女性記者の言葉にしばし感動…
 と、今回は手品の周りじゃなく、壮大な太陽系の周りのお話でした。

その130「続・第二の記憶」 (2012/2/13)

 今度は江戸時代の随筆『甲子夜話』に出ている話です。

 文政5年4月(1822)武州多摩郡中野村の百姓源蔵の倅、勝五郎(8歳)が、姉のふさに向かい「ねえさんはどこからこのうちに生まれてきた?」などと言うので『どうして生まれる前が知れるものか』と答えると、勝五郎は不思議そうに、「生まれぬ前のことは知らぬのか?」と聞き返す。『そんならお前は知っているのか?』と問うと、「おらは以前は程久保(地名)の久兵衛さんの子で藤蔵といったよ」などと答えます。
 勝五郎は、これは姉さんだけに言うので他の人には言ってはいやだ、と言うのを、あまりに不思議だから、ふさは親に言い、両親ともどもあれこれ聞きただすと、「久兵衛さんのところでは、おっかさんの名はおしずさんといって、おらが5つのとき久兵衛さんが死んで、その跡に半四郎さんというひとが来ておらをかわいがってくれたが、おらァそのあくる年6つで疱瘡で死に、それから3年目に今のおっかさんの腹に入って生まれたよ」などと物語りました。

 親も不思議に思い村役人に相談したところ、確かに程久保村には半四郎という百姓が存在したため、その半四郎を呼んで尋ねると、藤蔵という先夫の子供が6歳で疱瘡で死んでいることなども、いちいち勝五郎の言うとおりなのでした。
 その後、勝五郎が先の父久兵衛さんの墓参りをしたいというので、半四郎の家に連れて行くと、あの屋根はなかった、あの木もなかったなどとあちらこちらを懐かしげに言い、それが皆その通りだった由。
 以上は別に民話や言い伝えなどではなく、中野村を知行所にしている旗本多門(おかど)伝八郎から奉行所への正式な報告書が出されており、その写しが記録されています。
 (多門伝八郎という旗本は、100年ほど前の浅野内匠頭刃傷事件にも登場しますが、これはその末裔なんでしょうね)

 以上は僕は『甲子夜話』で読んだんだけど、国学者の平田篤胤(あつたね)が勝五郎自身から詳しく聞き取りを行い、「仙境異聞・勝五郎再生記聞」という書物を著しました。これが後に岩波文庫から発刊されています(ネットで入手可)。

 以下単純に数字の遊びです。仮に勝五郎の前世が藤蔵だったとして、その藤蔵が生まれたのは1805年、この年アイルランドのブライディ・マーフィは7歳、まあ、殆ど同じ年代なのですね。このころ世界のあちこちで、なにか怪しげなことが起こってたのかしら?

 いや、といって僕は別に、こんな話を信じているわけではありませんがね。「大霊界」だの「生まれ変わり」だの…まあ、なんとなく珍しい話だからご紹介したまでで。「奇術師」もちょこっと脇役で名前が出てくるし。

でも、こういう話を利用して金儲けをたくらむヤカラは許せないけどね。
「御教主様は、もったいなくも釈迦牟尼仏のお生まれ代わりです。ご寄進が足りませんね」
「あなたは前世で悪いことをしているから、その罪障消滅のためにはこの特別なお守りを、毎日拝まなければなりません。価格ですか?無料で差し上げてもいいんですが、普通はお志を200万円頂いています。あなたですから特別に半額で結構です。」………

 僕の前世? そんなのあるわけないけど、あったとしたら駿河富士川の川人足か馬方でしたよ。きっと。
 体力がないし、ナマケモノだから、働きが悪かったんだろうなあ。
 「あんたねえ、サイコロや花札なんぞいくら上手だって、おまんまなんか食えないよ!早く仕事仕事!!」

その129「第二の記憶」 (2012/2/6)

 催眠術で「記憶遡行(そこう)」と呼ばれている実験があります。
例えば、催眠状態にある30歳の人に、「一つ手を叩くとあなたは29歳になります」などと暗示を掛けて手をぽんと叩き、1年前の記憶をよみがえらせる事が出来るんだそうだ。
 これで10,20とだんだん若返らせていくと、普段全く忘れていた幼年時代のことなどを、ありありと思い出したりすることもあると言われています。脳の奥の奥の、通常は完全に忘れ果てていた部分が、ある暗示で蘇ってくるんでしょうかね。
 ま、そういうことはありそうな気もする。

 しかし、この実験でとんでもないことをやった人物がいた。
 実験者は催眠術師のモーリー・バーンスタイン、被験者(掛けられた人)はバージニア・タイという29歳の女性(一説にルース・シモンズとも)、1952年アメリカでの話です。催眠術師は女性の記憶をどんどんどんどん若返らせて行き、ついに0歳よりもずっとずっと若い時代にさせてしまった。
 そこで「あなたの名前は何ですか?」と問いを発したところ、『私の名前はブライディ・マーフィ』などという全く聞いたこともない名前が帰ってきました。どこに住んでいるのかと聞くとなんと、アイルランドのコークだという。バージニア・タイという女性はマディソン郡の出身で、国外なんか一度も出た事はない。
 催眠術師はブライディ・マーフィになってしまった女性に、いろいろ周りのことなんかを尋ねる。父親の名前、母親の名前、友達や周囲の人たち…この辺のことを、当のバースタイン氏が「第二の記憶」(1959)という書物に残しています。
 中学生のころ、偶然図書館で手にしたこの本を、当時夢中になって(でも眉につばを付けながら)読んだ記憶があります。
女性によれば、ブライディ・マーフィは1798年(日本では江戸後期:寛政10年)に生まれ20歳で結婚、1864年に亡くなった由。
 それに結婚した教会や町のことなど、かなり詳細に述べたようで、その後、ニューヨークタイムズやらシカゴトリビューンの記者やらがアイルランドまで調査に行ったとか、このいわゆる「ブライディ・マーフィ事件」は当時随分センセーショナルな事件であったようです。

 実際のとこ?それは分かりません。アイルランドで調査したらブライディ・マーフィは実在したとか、いやそんな人物はいなかったとか相反する結果などが発表されていたりして真相は藪の中。調査時点から100年も前の、田舎の無名の人のことですしね、良く分からなくて当たり前かもしれない。
 当時はまだ出生や死亡の記録も整備されてなかったようだし…。それにかの『本』だって、客観的第三者じゃなく、当事者が書いてるんだから創作部分も有るかもしれないしね。

 その後、奇術師ハリー・フーディニの助手をしていたエリック・ディングウォールなる人物(心霊実験などを暴いてきた研究者)が否定的な発言で注目を浴びたりしています。ともあれ、いまだにこのブライディ・マーフィ事件をもって、「人間には生まれ変わりということがあるのだ」と考えている人たちもいるようです。

 この話、日本に続きます。長くなるので以下次回。

その128「龍」 (2012/1/30)

 今年は辰年。もう年賀状の季節は終わりましたけどね。あ、当たりました?
龍、竜、辰、ドラゴン…僕はこの不思議な動物について不思議に思っていることがありました。
 これはもちろん空想上の生き物であって、実在の動物にこれに近いものはおりません。それにもかかわらず、全く異なる世界のあちこちの文化圏に、同じようなイメージが存在するのはなぜだろう? つまり、中国に竜があり、西洋にドラゴンがいる。絵で見ても何か似たり寄ったりだ。
 竜というのは、中国やインドの伝説は勿論、古代エジプトにもギリシャにも、またヘブライの伝説にも、さらにニューギニアやメキシコなどの伝説にも出てくるらしい。これらは、どれかがどれかに影響されて出てきたものではなさそうに思えます。殷や夏の時代に、エジプトのファラオたちと交流があったなんてことはいくらなんでもないだろう。
 お互いに文化の交流がなかったところに、独立に発生したイメージに、似通った空想上の動物が存在するって所を、以前からなにか不思議に感じていました。

 同じように全く存在しないものでも、「天国」とか「地獄」とか言うような形而上的なシロものは、全く交流のない文化圏の間で似通ったイメージのものが発生しても、それほど違和感はないのですがね。見たこともないのに具体的な動物として、同じようなイメージのものが発生するってのは、なんか妙だな、と思っていました。
 この「おかしな感じ」を遠慮しないで先に進めると、ひょっとしたら、何か東西に共通の現実が存在したのではないか、という空想にとらわれますね。
 いやもちろん、古代に竜やドラゴンが現実に存在したなどと、SF小説のようなことを言いたいわけではありません。そう、僕の想像は恐竜なのです。恐竜こそがドラゴンのイメージを生んだのではないだろうか。

 といっても、恐竜がそのへんをウロチョロしていたのは1億年ほど昔。それに対して人類の発生は、北京原人からで、たった50万年前、類人猿から長く見積もってもせいぜい百万年位の所でしょうから、桁違いの時差で、共存したはずはありません。
 言いたいのはつまり、恐竜の化石です。今でさえ恐竜の全身化石なんかが発掘されるんだから、古代人だって、こんな化石にきっとお目にかかっていたに違いない。
 顔だけで1メートル以上もある、そして全身骨格の巨大さ異様さはとてつもない、こんな化石をうっかり掘り出してしまった古代人たちは、驚いただろうねえ。そしてこれをもとにして巨大な竜・ドラゴンのイメージを膨らませて言ったのではなかろうか。
 竜のイメージのもとは大蛇(だいじゃ)だという説もあるようですが、僕にはどうもそうは思えません。なぜって、東西どちらの画にも足がありますからね。蛇に足を書き加えたら、笑いものになるわけだし、それに、蛇と竜では“おもざし”が違いすぎる。
 昔からいくらでも出てきたであろう恐竜の化石から、竜のイメージが生まれた、だからこんな架空の動物が、世界のあちこちの文化圏で似通ったものになってきたのではなかろうか、というのが僕の空想です。さて、どうだかな?

 ステージショーのクライマックスに、巨大なドラゴンを出現させる著名なマジシャンがおられます。海外でも大きく評価されている有名なショーのようで、アメリカで発行された雑誌の写真で見ると、どうも大変な迫力です。
 恐ろしげな龍が口から火を吹き、目はらんらんと光り…。是非一度見たいものだと思っていましたが、その機会がありました。
 しかし正直な感想を言うと、(恐れ多いことですけど)なんだかあの程度のものか、という感じでした。実物を見てみると、舞台を「ぬいぐるみ」がのそのそ動き回っている、という感じで(まあ実際その通りなのですがね)それ以上でも以下でもありませんでした。音響や照明で結構迫力をつけているけど、特に不思議な感じもないしねえ。
 なんでもそうだけど、聞くと見るではかなり違いますね。

 ところで僕はここ数年、年賀状には、干支の動物と一緒にマジックをやっている所を、ヘボな漫画に描くことにしているのですが、「竜」には困りました。
 結果、おなじみカウボーイハットのマジシャンが、ヘンテコな筒からにこにこと、「たつのおとしご」を出現させている画にしましたが…。
え?マジシャンが実物よりかわいく描けているって? ナニ実物だって結構……?

その127「認知症」 (2012/1/23)

 ちょっと以前の話ですが、なぜか認知症講演会というのに招かれてマジックをやってきました。いや別に、すでに認知症になっちまった人をかき集めて、叱咤激励しようなどという趣向ではなく、お客はこれからなろうとしている人たちです。つまり、認知症志望の方々が、えらい先生の「認知症とはいかなるものか」という講演を聴いて、正しい認知症になろうという主旨の集まりのようでした。

 ですから一応、現時点では手品を見て楽しんでいただける観客ではありましたが、しかしそれにしても、なんでそんな格調高い講演と手品なんかを一緒くたにやろうとしたのかは、イマイチ不明ではありました。単なる客寄せパンダだったのかもしれないけど、「客寄せ」になるほど名前が売れてるわけでもないしね。
 ズラーっと並んだおじさんおばさんたちも、「認知症」の勉強をしに、マジメに出かけてきたわけで、手品などをヒヤカシに来たわけじゃあないでしょうから、いささか違和感はあったでしょうね。
 こちらもそれなりに気を使って、
 「マジックは頭も手も使いますからね、マジックなんかをやったり見たりしている人は『認知症』にはなりにくいでしょうね」
なあんて、余計なパターを入れたりしましてね。分かってもいないくせに。
 ましかし、手品そのものはまずまず“大受け”のようだったのは、ご同慶の至りではありました。

 ところで、ぼくはこの「認知症」という言葉が気に入らない。どこの頭の悪いやつがこんなタワケタ名前をつけたのか。眠れない病気は「不眠症」といって「睡眠症」などとは言いませんし、妊娠できない症状は「不妊症」であって「妊娠症」ではありません。あたりまえのことです。「認知」困難な症状に、「認知をする症状」なんてネーミングはない。
 この「認知症」という言葉は、言葉の論理の基本をひっくり返してしまっていて、全く日本語の破壊もはなはだしい。Aという命題を否定している内容に、肯定する言葉を命名している。
 こんな馬鹿な言葉をマスコミも学会も平然と使っているなんて、僕には全く信じられない状況です。この国はいつのまに一億総白痴になっちまったのか?
現在の経済苦境も、こんな低脳たちが国を動かしているからではないのか!などと、これは少々八つ当たり。

 どなたかが「いやこれは、認知障害ということばの前半なんじゃないの?」なんて知ったかぶりをしていましたが、え?それって「障」の字が違ってるよ!
 ともかく、この言葉は誰がなんと言おうと大間違い!
と、プリプリ怒ってでかけた所、主催者のお役人が「これは大変いい言葉だと思っています。誰もが認知を出来なくなる可能性があるわけです。」などと馬鹿丸出しの意味不明なご挨拶をしておられました。
 なあんて、近頃怒りっぽくなってきたのは「老人性ナントカ症」の始まりかな?
まあ、こちらはただ手品をやってりゃあいいんだけれど…。
え? なに? 怒りっぽいヤツは、その…『認知症』とやらになりやすいんだって?

その126「居酒屋で」 (2012/1/16)

 今日はクリスマス。時々行ってる居酒屋さんで、歌とマジックのセットになったショーがあるというので、お友達誘って見に来ました。とっても楽しみ。

 いよいよショータイムです。
 若い女性歌手のクリスマスソングに続いて出てきたのは、ステキなカウボーイハットを被ったちょっとシブイおじさん。出てくるとすぐ、手に持った小さな紙に火をつけます。アラーこんなところで火なんか使っていいのかしら? と思う間もなく、紙は一瞬でバアっと燃え尽き、そこに黄色のきれいなハンカチが出現しています。
 皆いきなりの現象にびっくりしてワアーっと拍手。おじさんは少し得意そうです。このハンカチから今度は緑のハンカチが出現したり消えたり…なんだか不思議だなあ?そしてこのハンカチの中から最後にきれいな花が出てきました。すごーい!と、パチパチパチ!ここで選手交代。どうやらこれがイントロなのね。

 こんどはやたらめったら背の高い、笑顔の素敵な若いマジシャンの登場です。「イケメン・セキ」なんて、さっきのおじさんが紹介してたけど、芸名持ってる人なの?
 イケメンさん、なんだか少し照れてるみたい。私たち若い女性が多い場所なんか、普段あんまり縁がないのかしら?
 持ってきた風船をパァンと割ると、あらあら、中からワインのボトルなんかが出てきました。あざやかあざやか!不思議不思議!。前の女性に「これプレゼントです」なんて言ってるようだけど、後のほうからはちょっと聞き取りにくい。照れ屋さんで声も小さいほうなのかな?
 続いてトランプを一枚選ばせて、これにサインをさせ、そのトランプをびりびりと破いてしまいます。おやおやおや?と思っているうちに、その破った破片をゆっくり開いていくと、いつの間にか元通りのサインされたカードに!あらあら変だなあ?そんなことってあるのかしら?周りの人たちも大喜びで大拍手です。
 次は4枚の大きなトランプで、お客が自由に言ったトランプに大きなバツ印がついているというマジックでした。なんかちょっと手違いがあったようで、一瞬困ったような照れ笑いをしてました。カワイィー!
 最後は3枚のトランプを選ばせて、一枚ずつ当てていったんですが、3枚目にあれあれ、レモンなんかが出てきました。そのレモンを切っていくと、中からお客のカードが出てきたのにはもうびっくり。と、イケメンマジシャンさんでした。ぱちぱちぱち!

 ここでまた帽子のおじさんが再登場。今度は白いハンカチを持っています。このおじさんはハンカチ手品が得意なのかしら?手の中でコチャコチャ揉んでいるうちに、いつの間にか何かヘンテコな形に!あらいやだ!よく見るとパンティじゃないの!セクハラだわ、こんなの。
 「いや、いつもこんなのやってるんじゃないんですよ。今日は客層を見て(笑)」ですって!失礼ねえ。でもキャアキャア喜んでる女性もいるみたい。やーねえ。
 おじさんはうれしそうに、今度は白い紙を何枚か取り出します。折りたたんで勢いよく拡げると、あら、ぜえんぶ1000円札になっちゃったわ!すごいすごい。この後、お客の1000円を借りて、これがおもちゃの1万円札に変身。
 「ほら、1万円になったじゃないですか!良かったですねえ。どうぞお持ち帰り下さい」これにはみんな爆笑です。でもその後がすごかったわ。最初から別のお客が持っていたお菓子の袋の中から、番号を控えてあったお客の1000円札が出てきました。えーっ!そんなのあり?

 「今度はミスターマリックの得意な超能力マジックです」ですって!どんなのかしら?
「これは想像力のマジックです」って、なんだか意味がよく分からないけど、でもこれは本当に不思議だったわ。
 お客が自由に口で言ったトランプ一枚、確かハートの2だっかな?これが箱から出した一組の中で、1枚だけひっくり返って出てきたの。確かに変なことは何にもやらなかったのにねえ。こんなことって出来るんだァ!手品って!すごいわねえ。

 そして最後はロープのマジックでした。ロープを縛ると赤いハンカチがぽろっとコボレ落ちて!え?あれって本当は縛られて出てくるんじゃないかしら?きっと失敗よね。
 でもおじさんはあわてたりしてないみたい。まるで、こぼれたのは最初からの予定のように、シャアシャアと拾って切ったり結び目を作ったり…でもあれって、一体どうなってるのかしらねえ?なにか、切ってもすぐにつながるような特殊なロープなのかしら?
 そして最後はそのロープを丸めると、中からスゴーイたくさんの紙テープが客席一面に! うわー!キャア〜! ぱちぱちぱちと大拍手のうちにオシマイ。

 ああ面白かった。とっても。たしか、「横浜マジカルグループです」とか言ってたわね。ほかにもすごーいマジシャンが大勢いるところなのね、きっと…。いい感じ。

 ステージは変わって、トリの美人歌手のピアノ弾き語りになっています。
      ア〜イン ドリーミンオーバ ホワー〜ィクリスマー〜 
      ジャスライ ズィワンザイユースツノ〜ゥ〜♪♪
 ここ東横線は綱島、居酒屋「ゑぐし」。
 クリスマスの夜はだんだんと更けて行きます。

その125「FISMの予選」 (2012/1/9)

 FISM(3年に一度の世界大会:マジックコンテストの最高峰)のアジア予選が香港で行われましたが、ステージ部門ではついに日本の入賞者、つまり本選への出場資格者はゼロだったそうです。なんと、ゼロ! 入賞は韓国・中国・台湾などに全部さらわれた由。
 まあ、近年マジックの世界で、日本を除くアジア勢の台頭著しいのは知ってはいましたけどね。それにしてもゼロとはねえ。我々アマチュアでも驚くんだから、プロやら若手の養成に熱心な関係者の皆さんは、相当びっくりしたんじゃないでしょうかね。急遽、今後の指導方針やら育成体制についての議論なんかが、なされたようにも伺いましたが…。

 しかし、これはマジックだけに起こっている現象ではないようですね。
 囲碁の世界なんかでも、以前は日本がダントツで他の国なんかは眼中になかったのが、近頃は世界棋戦で殆ど優勝できない。それも、日本の名人・本因坊といった超一流の棋士が本腰を入れて出かけて、ですからね。
 僕が現役時代関わってきた電子機器産業なんかでも、いつのまにかサムスンやLGにやられっぱなしになってしまった。
どうもゴルフなんかもそうじゃないかしら?詳しくはないけれど…。野球やサッカーがかろうじてどっこいどっこいか? いま、日本が得意にしていたいろいろな分野で退潮、というより他のアジア勢の伸張が著しいようです。

 こんな現状の原因を、一口で要約してしまうわけには行かないだろうけど、どうもその一つの要因は、手垢のついた言葉で気が引けるけど、いわゆる「ハングリー精神」にあるように思えます。(電子産業なんかは多少事情が違うでしょうがね)
 あちらでは、その世界で食っていくんだ!ということになったら、もう日本とは桁違いの必死の思いで努力しているように思える。昔、僕のご同業者だった韓国人の話や、囲碁棋士養成の状況なんか聞いてもそうだけど、マジシャン志望者なんかもほんとに毎日、朝から晩まで練習に明け暮れているんじゃないかしら。大きい所で賞を取って始めて食えるようになる、なんて話も聞きましたし…。
 つまり日本が豊かに、そしてある意味“ぬるま湯”になってしまったことが背景にあるように思えてなりません。碁でもマジックでもゴルフでも、国際的なトップの座を滑り落ちて、もう一度返り咲くのは容易じゃないだろうけど。
 まあ、だからといって、僕なんか一介の街のアマチュアマジシャンにとっては、日本のレベルがどうだこうだなんて話は、言ってみれば雲の上のお話で、どうでもいいと言えばどうでもいいんですがね。

 ついでに思い出したけど、韓国電子産業の最大手の一つ、LGグループの総帥、具氏はなんと、アマチュアマジシャンでした。会食の時、なにやらYMGのビギナーコースみたいなカードマジックを二、三披露してくれました。
 ひとしきり感心したあと、そのカードを借りて今度は僕がやって見せたら、さすがに大会長びっくらこいてたけどね。
 アヤ! ウンギョンハンゲレンコスミダ!! なあんて言ったのかどうか?あはは!

その124「デーサービス」 (2012/1/3)

 月に一度ほど、さる養護施設で、デーサービスを受けている人たち相手にマジックをやっています。
 観客(?)は、だいたい20人から30人ぐらいでしょうかね。まあ、聞いてはおりましたがね、圧倒的に女性が多い。いつ行っても男性はせいぜい2人か3人です。
 これにはいくつか原因があるのでしょうね。平均寿命が女性のほうが長いこと、また、高齢になるほど女性のほうが社交性が高まって…、というより、男性は引っ込みがちになるらしいこと、などなど…。
 別に、高齢化問題を、手品の観点からあれこれ議論するつもりはないけれど、しかしマジックをやるほうの立場からしても、観客が女性のほうが圧倒的にやりやすい。2人か3人のおじいさんは、妙に回りに溶け込んでいない感じで、手品を見ている時間でも、さほど楽しんでおられるようにはお見受けできません。
 「フン、テジナごときか!くだらねえナ!」なァんてほど構えているわけでもなさそうだけど、それでもなんか横目でにらんでいるような空気もあります。
 (たかがシロウト手品だろ! オレが見りゃァすぐ分かるよ!)
そう、こういう方はきっと会社や役所なんかでは偉い人だったんだろうなあ。

 これに対して女性軍はにぎやかだ。「あ、今日はマジックだって!わあ〜!」なんて声が聞こえたりすると、こちらだってうれしくなります。
 なかでも、観客参加型の演目の場合、たとえば、前に出て来てスポンジボールを握ってもらったりする場合などですね、かすかに顔が紅潮していたりして、晴れがましいような恥ずかしいような様子が伺えます。そしてそのボールがご自身の手の中で増えたりすると、もう大変。このとき、前に出てきた方はもうその場のスターなのですね。
 このようなデーサービスの場などに来て、ご自分が座の中心になって注目を浴びる、なんてことは想定外のことだったのでしょう。ニコニコと真っ赤な顔になってご自分の席に戻ります。おばあちゃんだけど、かわいいねえ!
とはいうものの、中には小さい声で「分かんないねえ!」なんて、ボソボソ話し合ってるのが聞こえるときなどもあります。“分かろう”としているんでしょうねえ。やっぱり。

 最近は単にマジックをやるだけでなく、何か覚えて帰って頂くようなテーマを一つ入れるように心がけています。もちろん、相手が相手だけに、このマジックの選定には大いに悩むところではありますがね。
 こんなのは軽いだろうなんて用意したのが、殆どの人が出来なくて四苦八苦。こちらも始末のつけように困ってオタオタ。かと思うと、結構難しいかな?なんて考えたのが、つぎつぎ「わあー出来たァ!」なんて大喜びなどなど…。
 まあつまり、こちらも勉強になっているわけですね。おおいに。
 「どうぞご自宅でお孫さんたちに見せてあげてください!」

と、戦い済んで日が暮れて…いい気分で軽くビールなどでハンセイ。
うん、これはこれでいい一日。
 あのおばあちゃん、家ではいつもはしかめ面なのに、いまごろ「今日はすごく面白かったよ!」なんて家族にニコニコしてくれてるんじゃないかな。

その123「あらため」 (2009/5/25)

 手品の重要な技法に、各種の「改め」があります。
ホラ、何にも持ってないヨ。こっちの手もカラだよ。この箱は、なあんにも入ってないよ!この変な袋もカラッポだよ!って、あれこれと心を砕きながら見せることですね。
 ところが、どうもこれを過剰にやる方が多い。客がそもそも疑っていないところに、おかしな手つきで紙幣の裏を見せたりするもんだから、かえって疑われてしまう。しかも、シャアシャアとさりげなくやればいいところを、どうしても肩に力が入ってしまって、空である事を懸命に納得させようとする。ほんとにカラッポだよ!そう見えるでしょ?

 この辺に関する先達の名言が有るのはよく知られています。
 「追われていないのに逃げるな」アル・ベーカー
 うまい言葉ですね。手がカラであることなんか、ワザワザヘンテコな手つきで見せなくたって、自然な形であれば客は疑いません。
 改めの余計な技法を覚えるより、パームした手がナチュラルになるような練習に時間を費やしたほうがよっぽど有効です。
 紙幣にせよコインにせよ、普段見慣れているものなら、それを改めるなんてのはかえっておかしい、って事に案外気がついていない手品師がいます。これは普通の1000円札ですよ!何にもシカケのない新聞紙ですよ!なんて一生懸命になって見せようとするから、え?普通のでないお金なんてあるの?なんて、余計な疑いを起こさせてしまう。
 昔からの教えられたとおりに改めて、それでかえって疑われていれば世話はない。日本では「藪をつついて蛇を出す」って、昔からある教えです。

 もっとも、普段見慣れていない、赤や黄色に塗りたくられた箱や筒なんかだったら、それはやっぱりちゃんと中を見せなきゃいけないでしょうけどね。
 しかしこれもねえ。全く見たこともないようなキンキラの箱や筒だったら、いくら何にもないヨと、気張ったところで、なにかあるんだろうなあ?ありそうにはみえないけど…って思っているのが大方のような気もしますがね?
 まあ、そう言っちまったら身もフタもないか。あ?フタに種があるって?そりゃそりゃ失礼しました。

 ところで、先ほどのアル・ベーカーの考案に「アルプロダクト」というシルクマジックがあります。ライス「シルクマジック大事典」などにも紹介されていますね。一枚の紙を表裏よく改め、くるっと丸めて中からシルクが出現する。これはトリックと言うよりも、「改め」の技法でしょうね。ちょっと角度には弱いけど、中々有効な方法ではあります。(これは「バルーンチップ」という名前で商品化されています)

 しかし、「余計な改めはするな」、との意味の名言を残した人が、「改め」の技法で名前が残っているのもなにか皮肉な感じもしますね。

その122「花はどこへ行った」 (2009/5/18)

 「はなはどこへいった」で変換したら、「鼻はどこへいった」となってしまった。いや、それはどこにも行ってないんだ。別段…。

 さて、「花はどこへ行った」。ご存知キングストントリオ、PPM、ブラザーズフォーなどで歌われた名曲です。

野に咲く花はどこへ行く    野に咲く花は少女が摘んでいった
その少女はどこへ行ったの  少女は若者にとついで行った
その若者はどこへいったの  若者は兵士になって戦場に行った
その兵士はどこに行ったの  兵士はお墓に行ってしまった
お墓はどうなったの      そのお墓にはあの花が咲いたの

 先日ふとした拍子につけたテレビで、「2008ブラザーズフォー日本公演」というのをやっていました。これが実に感動的だった。
 かっての若さあふれる四人組は、いまやみんないいおじいさん。若さの替りにしわのあふれるお顔で、しかし年輪を加えたそれぞれ実にいい顔で、昔のままにギターやベースをかき鳴らし、昔のまんまの声張り上げて、懐かしい歌の数々を聞かせていました。

 グリーンフィールズ、アラモの歌、七つの水仙、さらばジャマイカ……。
 ま、いわゆる“なつメロ”ではありますがね。なんか思わず、涙が溢れてきたりして…。そして極め付けが「花はどこへいった」でした。もうボロボロ。
 あの頃ベトナム戦争の真っ最中。ジョーン・バエズの「ドナ・ドナ」や、ボブ・ディランの「風に吹かれて」なんかと共に、いわゆる“反戦歌”の代表的なものだった。
 日本では高石ともや、フォークル、そして岡林信康…。当時はフォークソングと言えばすなわち、「戦争反対」のメッセージを込めたものだと思っていましたね。その反戦デモで、学生寮で、そして夜の山上のコンパで…。よく歌ったなあ。ギターの上手な友達もいて。

 ブラザーズフォーも、聞いてるこちらも、あれからざっと40年。幸い兵士にもならずお墓にも行かずに、夫々しわも増えて同じ歌を聴いている。ああ!

 いまは戦場の花ならぬ、舞台の花をヘタな手つきで咲かせていたりして…。
 あれ?仕込んだ花はどこに行っちゃんたんだ?
 平和だなあ。いいのかなあ?

その121「かぶり」 (2009/5/11)

 マジックの大会や発表会などで、演目が重なってしまうことが時々あります。アマチュアの会などでは、ある程度はやむをえないことでしょう。しかしそれも程度問題。先日のマジック大会のはひどかった。

 「神田祭」が二回、正確に言えば三回。
 二本の長いロープを舞台いっぱいに張って、人間を縛ったり、またははっぴを縛ったり…。縛っているモノが違うと言えば違うけど、客から見れば全く同じ現象が繰り返されてる。あ、またやってるよ!
 更にひどいのは「めおと引き出し」でした。大御所北見プロの至芸がトリに控えているのに、その少し前にクラブメンバーが殆ど同じ手順でこれを演じたりしていました。これは実に主催者の感覚を疑いましたね。
 いったいどういうつもりなのか?品評会のつもりなのか、超一級のプロの演技の前にヘタな見本を見せたかったのか? それとも前の演者では現象がいまひとつ分からなかったので、改めてこういう手品なんだよ、と、見せたかったのか?単に打ち合わせ不足なのか?ショーの演出に関する感覚が全くない主催者だったのか?
 それに、出演を依頼したプロにも失礼なことのようにも思います。
 えー?あれさっきやったじゃん!

 どこかの会のように、使うマジックテーブルまで同じものを避けるなんてのは、いささか行き過ぎかとも思いますが、シルクやロープなどのちょっとしたアクトがカブってしまうほどなら、それほどナーバスになることもないのでしょう。しかし、ひとつの演技の中心になる大ネタが何回も登場する、なんてのはいくらなんでもねえ。
 北見御大に出演依頼すれば、大御所のウリモノの大ねたが登場することは分かりきったことなのに…。それに、観客だってそれを期待しているわけだしねえ。
 落語だって前座と真打が同じ話なんて事はあり得ない。師匠!その噺さっき聞いたよ!

 ところで「めおと引き出し」ですがね。どうも僕には理屈が少し腑に落ちないところがある。二段重ねの引き出しの、下側に入れた玉が消えた。これは実に不思議だ。
 しかしそのあと、上の引き出しを出して、こちらにもないよ!と見せる。え?そんなの当り前じゃないの!下に入れたものが上になんて、もともと行くわけないよ!
 そもそも、これって二段の上側って、なんのためにあるの?いつもカラだよカラだよって見せるだけで、何にも役を果たしていないようだ!イヤ仕掛けの話をしているんじゃないんですヨ。あくまでも客から見ての話で!
 これってどういう理屈の手品なんだろうね?

 もっとも、北見プロの鮮やかな手さばきは、そんなササヤカな疑問なんか感じさせないような、いつもながら魅力たっぷりの華麗なステージではありましたが…。

 まあね、「“めおと”引き出し」なんだからね。少しぐらいワケ分からないところがあるのも当り前か…。

その120「手品の標語」 (2009/5/4)

 手品をお勧めする標語なんてえものはありませんね。“格言“は多いけど…。
標語は、大概は飲酒運転やら薬物やら、なになにをするな、と言うのが多いようです。「注意一秒怪我一生」「飲んだら乗るな乗るなら飲むな」
 ともあれ、標語つくりというのは特殊な才能が必要なものらしい。コピーライターの才能なのかな?
 小学校の頃、読書週間とやらで、読書を勧める標語というのを作らされました。小学生にいきなり標語なんて言われたって、何をどうしていいやらさっぱり勘所がつかめない。みんなうんうんうなった挙句、自分も含めて、せいぜい「本をいっぱい読みましょう」的な、どうにもならないハシボウであったことは間違いありません。

 このときの最優秀作が
 「読書熱心もの知りはかせ」
 というものでした。これはアザヤカ。ピシッと来るね。
 そしてこれを作ったのが別段学業に冴えていると言うわけでもない、やんちゃないたずら小僧であったことにも驚かされました。本なんか読んだことなさそうなやつだった。
 ウン、こういう気の利いたものを作る才能には、読書熱心である必要なんかないんだな、と言うことも、この標語を読んで理解できました。
 しかしなるほど、標語というものはかように作るものであるのか、そしてあいつにはこんな意外な才能が有るのか、と感心したのを覚えています。

 もうひとつ、アッと驚いたパロディがあります。
 「今日も元気だタバコがうまい」
 と言う看板があったんだそうです。まあこれは標語と言うよりタバコの宣伝コピーですね。この「が」の点々をペンキで塗り消したやつがいる。お分かりですよね。
 「今日も元気だタバコかうまい」
せっかくの宣伝が見事に反宣伝になっちゃってる。これまたアザヤカな才能だ。
どうも自分にはそのような才能は皆無だな、と思っています。残念なことだ。

 ところでこのところ、世界的な不況で、派遣切りなど職を失う方が多いとか。コチトラは今は手品三昧の自由業。もともと職なんかないわけで、不況だろうが犯罪を犯そうが職を失うって事はない。なんとなく世間様に申し訳がないような気もするので、ここらでひとつ職を失った方への応援標語を、乏しい才能を絞って考えました。
ほら
 「元気にパチンコ明るい家庭」
 「今日もサラ金豪華なディナー」
 「孫と競輪帰りは屋台」

では最後にようやく手品の標語。得意のパクリでご機嫌を伺って…。
 「手品熱心いかさま博士」
 さあ、博士を目指そう。

その119「神田祭」 (2009/4/27)

 どうしてこんな名前がついているのか良く知りませんが、昔からある有名なマジックです。僕がご幼少のミギリ、マジックなるものを始めて見たときの、二代目天勝一座の演目の中にもありました。テレビなんかない時代だし、田舎町に本物のマジック一座がやってくるなんてことはめったにない、いやもう驚きの連続でした。という話は以前にもどこかで書いたな。
 さて、「神田祭」です。ステージ中央にすっくと立った太夫は長い二本のロープを持っている。天勝さんは確か和服でしたね。二本を合わせて中央を首にかけ、両手で夫々の側を二本ずつ持って、端っこはずっと長くたらしていたような気がします。
 昔のスタイルですからね。長々と口上よろしく、ご自分の体をそのロープで結わきます。それから会場から子供を舞台に上げ、その子供を太夫の前に立たせて、今度は一本ずつのロープでその子供を結わきます。
 さてさて二本のロープの両端を二人の後見に持たせ、再び思い入れたっぷりの口上のあと、裂ぱくの気合とともにその両端を引っ張ると、見事に二本のロープは二人の体をすり抜けてしまいます。会場はどよめきとともに割れんばかりの大拍手。とまあ、こんな演出でした。一種のイリュージョン的な扱いでしたね。
 いやあ不思議でしたねえ。こんなことがあろう事かあるまいことか。幼稚園に上がったかその前ぐらいか、幼児のワタクシにはその日の演目の中で一番不思議でした。

 その後めでたくモノゴコロついて、マジックの世界にかかわるようになってから、トリックを知って唖然としました。なあるほどなあ!ずるいことを考えるものだ!
 幼い頃から不思議だなあと思い続けていたことの疑問が氷解するってのは、目からウロコの面白さ!と同時に一種の落胆もありましたね。
 “知ってしまえばそれまでよ。知らないうちが花なのよ”

 このマジックの原理は、江戸の古い手品伝授本「珍曲たはふれ草」などにも出ているようですが、西洋で「おばあさんの首飾り」としても知られており、どちらが古いのかはよく分かりません。いずれにせよこのアイデアは応用が広く、サロンマジックなどでもきれいなシルクを何枚か使って演じられるのは、良くご存知のとおりです。

 さてではお得意の失敗談。
 某所某日。某氏との競演です。得意のロープとシルクの演目に続けて、やおら2本のロープと3枚のシルクを取り出します。何しろこのマジックはいつも大成功。気合とともにシルクがロープから外れて飛び散り、会場はどよめきで終わることになっています。
 それがこの日はなんとしたことか、エイッとばかりに2本のロープを引っ張ったら、ありゃりゃ!シルクは外れずにロープでしっかりと縛り付けてしまったではありませんか!こりゃまたなんとしたことか!って動揺しながら良く見ると、なんとなんと、種の部分の持ち方を間違えてた。せっかく種を作っておきながら、2本のロープを普通に持っちゃってたよ!これじゃあどうにも仕方がない。
 いくらずうずうしくたって、これは流石にカバーのしようがありません。いやま、悠揚迫らず丸めてしまいこみ、シャアシャアと次のマジックに進みましたけどね。ああ!

 え?いつも成功してるからって、“慢心”はいけないって?
 いやその…そろそろ来てるのかなあ? アルツ……なんだっけ?

その118「箱根山」 (2009/4/20)

 マジックランド主催の「箱根クロースアップ祭」は年に一度のお楽しみです。湯本のホテルに全国からクロースアップ好きが集まって、あれやこれやの二日間。アマチュアも超有名なプロも、ごちゃごちゃと一緒になって、世界トップクラスのクロースアップマジックを楽しむ時間です。
 例年、海外から著名マジシャンをゲストに呼ぶのですが、今年はイギリスからのマーク・メイソンと、フィンランドからのシモ・アルトのお二人。マーク・メイソンはレクチャラーとしても一流で、ユーモアと迫力あるレクチャーでは有りました。
 一方のシモ・アルトは、これはFISMの優勝者。賞を取ったベルのパフォームを引っさげての登場です。使ったコインも大小のベルも、みんな彼個人専用に作った特別製のもののようでした。ウーン、ここまでやらなければFISMトップは取れないんだなあ!って感じでした。
 日本からは名前も始めて聞くような若い人たちが何人か出場しましたが、これがみんな素晴らしくうまい!一時期のテレビのマジックブームが育てた俊才たちなのでしょう。マジックの世界も明らかに世代交代が進んでいる。誠にご同慶の至りです。
 昔のマジックを昔のようにやる、って人はここには来ません。ほかのコンベンションと違って若い参加者が多いのも特徴的です。
 著名なプロではふじいあきらさん、ドクターレオンこと坂井さん、ナポレオンズのボナ植木さんなどなど…。ボナさんのユーモアあふれるトークは絶品ですが、これはテレビでは役割分担の関係で殆どお目にかかれない。もったいないような気もします。
 とまあ、結構楽しませていただいた二日間ではありましたが、ワタクシなどが最近御用の多い老人ホームやケアセンター向きのネタはここには全く無縁です。アタリマエだ。後期高齢者のかたがた相手に、不可能なカード当てなんかやってみたってねえ。
まともあれ、「不可能なカード予言」などなど、いくつかの戦利品を担いでの下山とはなりました。よっこらしょ!
 
 さて、例によってマジックとは全く無縁な無駄話。
 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」って、ご存知有名な馬子唄です。今回泊まったホテルの脇の旧道をしばらく上ったところに、今でもこの碑があります。
 しかし、この歌は不思議な歌です。だって、これはどう見たって箱根は単なる引き合いで、大井川が主役の歌ですよね。箱根の難儀な道を、馬を引きながら登っていく馬子たちが、大井川の歌を歌っていく、というのはどうもおかしい。と、かねがね思っていたところ、なにかの本でこの疑問が氷解しました。
 これはもともとは恋を歌った俗謡で、「越すに越されぬおもひ川」だったと言うのです。つまり、せつない恋の思いの川はなかなか越すに越されない、箱根の山はなんとか越えられるけど…。うん、これなら良く分かる。粋なものです。
 長い間歌われているうちに、いつのまにか大井川に転化してしまったのでしょうね。民謡俗謡などでは良くあることのようです。
 うん、“越すに越されぬ思い”か…。

その117「二人羽織」 (2009/4/13)

 某所某発表会で久しぶりに「二人羽織」の演技を見ました。
 一人のお客を上げて、この人に羽織をふわっと掛けて正面を向かせ、演者が後ろに回って羽織の袖から両手を出し、その演者の両手で何かのマジックをやる。一応、そのお客が何かをやっているように見えるって寸法です。

 もともとこれはマジックではなく、お座敷での座興か、幇間芸だったのでしょう。基本的なコンセプト、と言うとおかしいけど、お座敷でのお笑いのポイントは、正面を向いた人が(実際は後ろの人の手で)例えば何かを食べようとする、それがうまく口に運べない。変なところに食べ物を持っていってしまって、口でそれを追っかけるが、鼻みたいなところに押し付けてしまって大笑い。などなど、うまく行かないってところが笑いを誘う、と言う余興でした。扇子でほっぺたを突いてしまったり、お猪口のお酒をこぼしてしまったり、実際は大変だったのでしょうね。「お座敷」で見たことなんかないけれど…。

 これをマジックへの応用を試みたのはどこのどなたか知りませんが、ステージのマジックとしてみた場合、「余興」と変っていろんな「コンセプト」があるように思いました。

 以下、面倒なので上がってもらった客を仮に「田中さん」とします。
 まずは「田中さんは全くマジックの素人なのに、これがうまくマジックを演じるってことで拍手!」とまあ、これが普通のやり方なのかもしれません。今回見たのもこの線を狙っているようでした。これは先に書いたお座敷余興とは全く違うコンセプトになっています。この場合は、実際には何も見えていない後のマジシャンが手だけでちゃんとマジックをやる、という見せ場もあるようです。
 しかし、この場合、田中さんの「立場」が難しい。田中さんには種は見えているのか?見えていて笑ってしまうのか、または田中さんにも種が分からないようにして不思議がらせるのか?つまり、“演じたマジシャン”(田中さん)自身が不思議がっていることをひとつのポイントにするのか、または逆に田中さんにマジシャンとしての表情を作ってもらうのか?
 この、田中さんの「表情」ひとつで、観客に訴えようとするポイントがガラッと変ってしまいます。

 次は「上がった客をマジシャンに見立てて、うまくやろうとするがおかしなところに手が行ってしまう。さっぱりうまくいかない、って事で笑いを誘う」と、こちらはもともとのお座敷コンセプトに近い見せ方です。しかしこれも、どのようにうまく行かないのか、どう見せるのか、など相当凝った練習が要りそうな?
 それに、なんとなく田中さんをおちょくっているような感じにもなってしまいそうで、せっかく上がってもらった人に悪いような気もします。

 ステージを見ていながらふと思ったのですが、こんなコンセプトはどうでしょうかね。
 二人羽織の二人組のほかに、もう一人本物のマジシャンを登場させるのです。そして「マジシャンがきれいに演じたマジックを、二人組が真似をするが、事ごとにうまく行かない、全部種をばらしてしまう」という線です。
 つまり、昔からある、二人でやるネタばらしマジック(一時、ドリフターズの加藤茶と志村けんがやってましたが…)を二人羽織でやるって訳ですね。

 まあしかし、どの線を狙うにせよ、羽織を着た客の「立場」と「表情」がキーポイントになることは間違いないわけで、これを急に上がってもらった斎藤さんにやってもらうってのは、かなり難しいことのようです。

 例えば、ナポレオンズさんあたりの一級プロにやって頂ければ、とっても面白いステージになるような気も致しましたが…。



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